昨日から三鷹は下連雀にある次女のところにお世話になっている。昨日と一転して冬に逆戻りしたかのような冷たい雨が昨日から降り続いている。次女は今日仕事なので留守だが、夫のSさんと孫の葉君と3人で午前中楽しく過ごし、葉君がお昼寝したすきに、つかの間五十鈴川だよりを打っている。
この夏7月で、2才を迎える葉君なのだが、お正月以来の直対面を(昨日は帰宅が遅く対面が叶わなかった)朝早く迎えたにも関わらず、好奇心満々で物怖じせず、即わたしと打ち解け遊んでくれたのが何より嬉しく、わたしもまた共に遊べたことが嬉しく、その事を打てばもう他には打ちたいことも特にないのである。
葉君がはまっている数字表 |
毎度毎度同じようなことを繰り返し打つことになるのだが、わずかではあれ記録という意味で一行でも打っておきたい気になるのは、葉君のえもいわれぬ輝きの一瞬を記しておきたいからである。その事は長女の望晃君についても、まったく同じである。
爺バカといわれても、わたしはまったく馬耳東風、頓着しない。それほどまでに二人の孫の存在は再会する度にわたしを驚かせる。時に体力が追い付かないのだが、一日でも長く共に遊べる体力をキープしてゆかねばという気になる。
そういう意味で、これからの一日一日、我が身をいかに老けこまないでキープしてゆくためには、どう生きればいいのかと問わずにはいられない。
わたしの子供時代とは激変した時代環境のなかを、わが孫たちは今も生きているし、これからも生きねばならない。そのような最中、これからの我が家に於いてのわたしの役割を、いかに務めていけばいいのかを、以前にもまして真面目に考え始めたわたしがいる。
孫はわたしに、オーバーではなくいかに老いて行けばいいのかという、永遠の命題を嫌でも考えさせずにはおかないのである。このようなことを打つと何やら照れるのであるが、照れても仕方がない孫の存在はわたしの行く先を照らし、変容を迫るのである。
だからわたしは、いかなる変容がこれからの我が身に起こってくるのか、あるいは起こらないのか、が実は楽しみなのである。親は必死で子供の成長を見守る。お祖父さんであるわたしはいかほどのこともできないけれど、わたしなりのお祖父さんの役割のようなものを考え続けたい。睡魔に教われながらもお父さんが創った特性うどんを必死で口に運ぶ葉君の姿に感動したことを、打っておきたい。