寝起きの五十鈴川だより。キッチンにパソコンを移動、小さな空間なのですぐに暖房がとれる。落ち着いての朝のコーヒー一日の始まりをこよなく愛する私としては、なんとも言えずありがたきひと時である。
パソコンの前に座って一行を打ち始めたら、何とはなしに 一文が流れ生まれてくるようになってきたのは、手術後からのような気がしている。ちょうど一年前の2月の末に原因不明の発熱が突然襲ってきたので、コロナ下でのその時の大変さは、経験した者でないと、当事者でないと分かりえないのだ、と思える。
きっとそのような、いわば突然の病や、事故やその他もろもろ、痛みや苦しみを抱えておられる方が、この世には途方もないほど存在しているのだということが、古希を目前の人生初手術で、曲がりなりにもちょっぴり体験できたことは、あれから一年近くたち、本当に良かったのだと、今となっては感謝しかない。
まかり間違っていたら、もう私はこの世には存在していなかったかもしれないのである。そのことに思いをいたすと、もうこれからの時間は、日々が在り難いというほかはないほどに、私はどこか以前にもまして、どこか楽天的である。
書棚に眠っていた19歳の時の初版本 |
五十鈴川だよりを打つのがたのしくなったし、何より日々の生活が、コロナ渦中下でもあるにもかかわらず、たのしいのである。すでに打ったと思うが、手術しなかったら、遊声塾を続けていたであろうし、妻とのウォーキングも発心しなかったかもしれないと、おもうのである。
禍を転じて福と為す、禍福は糾える縄の如しともいうが、その言葉が沁みるのである。臆面もなく打とう。
これからは妻との時間を最優先で生きてゆくことにしたのである。入院中どれほど妻の存在、家族の存在に日々支えられていたのかが忽然とはっきり自覚できたのである。
間もなく亡き父の命日(亡くなって22年)がやってくる。敗戦で幼い姉と生まれたばかりの兄を連れて北朝鮮から引き揚げ、戦後を生き延びた父は、晩年どこに出掛けるにも母を連れて旅していた。そのわけが、ようやく私にも かすかに実感できるのである。
手術のおかげで、本当に大切な身近な人の存在が、はっきりと自覚できたのである。だからすべてをリセット、遊声塾もあきらめ、誰にもおもねることなく一人で自由にやれる音読自在塾を始めることしたのである。
長くなるのを端折って話を変えるが、年明けから、すこしづつだがチェーホフ作品 を一人で音読している。今の私の年齢で読むからこそ、チェーホフの作品が少しは実感して音読できるのかもしれない。あの登場人物の苦悩の深さや、痛みや、置かれた状況下の過酷な心理状態は想像を絶するが、音読したいという感情を抑えることができないのである。
そういう感情が、古希を目前にして湧いてくるということが 私には何よりも大切なのである。自分自身のレッスンのために、チェーホフ作品をこれから音読したいがために、自在塾を発露したのかもしれないとおもえるほどに、年が明けてチェーホフ作品をひとり音読している。
音読すればするほど、シェイクスピア作品と同じように引き込まれる自分がいる。翻訳日本語の【翻訳した方々のチェーホフへの愛、敬慕が感じられる】素晴らしさが堪能できる。たぶん、口と意識が連動できるこれからの老いの時間は、可能な限り、可能な範囲でチェーホフ作品を音読したいという新たな目的が生まれてきている。(さあ、朝の音読時間である)
短編小説も素晴らしい。今読んでも打たれる。とくに今読んでる【白鳥の歌が聞こえる】は主役の登場人物が68歳、もう一人は年齢不詳の老僕二人だけの短い芝居なのだが、これが今の私には悲しいまでに面白く、音読してみたいのである。理由はないし、わからない。ただ台詞がいいし、何より劇中登場人物がリア王やハムレット、オセローの台詞を口に出したりするのに驚いたのである。チェーホフは44歳で亡くなっているが、あの時代にこのような作品を書いていたことに。
おそらく手術もせず、コロナが出現しなかったらチェーホフ作品を音読することは、なかったかもしれない。いつ終息するのか判然としないコロナ、オミクロン変異株渦中、倦みもせず日々生活できているのは、チェーホフ作品との出会いが大きい。(のである)
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