天皇誕生日の朝である。我がなき父はわたしが小さな頃、日の丸の旗を家先に掲げていた。小学生の頃まではと記憶している。中学生の頃から時代の推移と共に、父は日の丸の旗を掲げるのをやめてしまった。次第に近所でも旗を掲げていたりする家は徐々にみかけなくなってしまった。かくも人心は移ろう。
あれから半世紀以上の歳月がながれ、いまでは、おそらく私の家の近所でもカカゲテイル家は無いのはないかというきがする。何とはなしに。家先に日の丸の旗をかかげるのが、カッコ悪いというような空気感が世の中をおおうようになってきて、父親もやがて時代の推移に抵抗しきれなくなっていったのだろう。
さて、移り変わる心といったものはいったい全体体のどこにあるのであろうか。日本的な心とは。(今私はちびりちびり岡潔先生のご本を詠んでいる)
それがなぜなのかを打ち出したら長くなるので打たないが、古希を越えた私には、矢鱈小さい頃の懐かしい記憶が浮かぶのは、やはり老いの心のなせるなにかなのかもしれない。
ところで、我がふるさとが生んだ歌人、若山牧水は、[今日もまた・心の鐘を打ちならし打ちならしつつ・あくがれてゆく]という歌を詠んでいる。私の生家あとから20キロくらいのところに生家が今も残っていて、家ノ前にはきれいな川が流れている。
コロナ以前の夏、川の対岸にある牧水記念館を訪ねたさいに泳いだことがあるのだが、五十鈴川よりももっと小さい川で、小さな子供が泳ぎを覚えるには最高の川なので、いつの日にか孫たちをつれてゆきたいと、打っておきたい。
ところでいつものように話はこつぜんと変わる。遠い島国で平和に慣れきった初老男には、ウクライナほか、アラユルいまこの瞬間に起きている世界の出来事の、皮膚感覚で遠い不可解さには、なすすべくなくどこかに微かに忸怩たるおもいがする。どこか仕方なくもやるせない。
寒空に咲くけなげなボケの花 |
日本で報道されている一部の良心あるメディアの中の、良心あるジャーナリストの声をキャッチする努力を怠ると、老人はますます老人化の一途をたどるのだと想う。不可解であれ民族のあまりにもいりくんだ歴史を知らないと、安易に自国の国益優先報道に染まってしまう。危ない。
よくはわからない複雑怪奇な現代の紛争には、凡ぷなどの頭では、簡単にことの善悪などはおよばない。だから黙しているほかはないのだが、関心のバネはどこかに持っていないと、まずいという感覚はいまだある。
いつも想うのだが、どこかに対岸の火事ではないのだという感覚を持っていないと、まずいと想う。万が一事が勃発したら、世界は繋がっているのだから、ガソリンの値上げ等ではすまない事態が、我々庶民生活者にも必ず及ぶ。
今や我々の生活は電気やガスや石油なくしてはたちゆかない。複雑怪奇という他はないほどに、こんがらかった経済テクノロジー資本お金主義が毛細血管のように全世界をおおっているのだから。
超高速デジタルサイバー攻撃、ドローン兵器、特殊生物化学兵器消費紛争(になっては大変である)。冬季オリンピックは終わったが、この間五十鈴川だよりはまったく触れていない。もうまったく個人的に関心がわかない、のである。
なぜか、長くなるのではしょるが、【老いてみて・平凡に咲く・在りがたさ】とでも言うしかない感覚、すべての命が尊いのである。
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