ところで新しいタブレットで五十鈴川だよりを打てる喜び、いい年をして我ながら子供みたいだと思うのだが、いいのである。起動するのが早いし何か新鮮な感じで静かにコンパクトに打てるのが嬉しい。
古希を迎えてあらためておもうのだが、1970年18才、あの無知丸出しの田舎者が、よくもまあ、大都会で生活し、幾年月星雲は流れ、34才で西大寺生まれの女性とで廻り合い、37才で父親になり、40才で岡山に移住、子育てを終え、ふたりの男の子の孫に恵まれ、古希を迎えることができた事実をおもうとき、にわかには信じられないくらいの感慨にやはり襲われる。
- 世のすうせいに流されながらも、辛うじて踏みとどまり、妥協を重ねつつも、しつこく自分の居場所を探し求めつつ、悪戦苦闘の果てに現在地で古希を迎えることができたことを、ただただ素直に、万物のお陰と感謝の気持ちをしっかりと五十鈴川だよりに打っておきたい。
事実は小説より奇なりというが、まさにしかりである。無数の偶然の、今思えば必然なのかもしれないと思えるほどに、オーバーではなく、時に神の降臨、おんちょうとでも言うしかないほどの幸運が重なったが故に、古希を迎えることができたのだと。(想える)
さて、古希を迎えたからといってさほどの大きな生活上の変化はない。年明けから臆面もなく打っているが、これからは、妻との時間を最優先で生きて行くといったこと以外は、ほとんどこれまでとかわらない。
もう一寸先は何が起こっても不思議ではない年齢なのであるから、なにか突発的な出来事が起きたさいに備えての、心構えをきちんと日々養いながら、養生一番で歩みたい。
還暦を迎えたときとは、全く異なる感覚が今の私を包んでいる。なにやら身軽になったと言うか、自由になったと言うか、自在な感じが増して、どこか楽になった感がましている気がするのは、気の迷いかもしれない、が。
ともあれ、時は後戻りしないのであるから、厳粛に老いを見つめながら、今しばらく家族や私を必要としてくださる方々との時間を大切に歩みたいといったくらいのことしか思い浮かばない。
ただ、18才で世の中に出たときに比べれば、ほんの少し世の中のことがわかった気がしているので、独学の楽しみ、のようなことを今後も可能な限り生活者の視点で学びたい。古希近くなってチェーホフ作品に再会できたこと、ありがたい。ささやかに継続の上に老いの花は咲くと信じる
絶対矛盾するかのように、人生時間が短くなってくるにつれて、偉大というしかない文学作品の奥深さが、爪の垢くらいはわかるようになってきつつある自分がいる。
そのような文学作品を、音読したいという欲求は以前より深まっている。ポストコロナを見据え、老いの努力を続け、ささやかに世界の片隅で発表したい。
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