森田真生氏の本【数学の贈り物】を昨日終日ゆっくりカタツムリのように読み続け、終えた。理解できるから読むのではなく、文体の思考の果てに紡ぎだされる、今現在の氏の日々の生活の中で生み出される、20篇の珠玉のエッセイ集、あだやおろそかには読めないのだ。
2019年3年前に上梓されている。あとがきを書かれた日付が記されていたが、2月13日とあって驚き、何か奇縁を感じた。私の誕生日である。まさに私の古希を祝う誕生日プレゼントのように思える本に、今私は勝手に出会えた喜びに浸っている。
まあ、このような子供じみたところが初老になっても抜けきらないところが、かろうじて現実と私の今の生活を支えているところなのではないかと、いい方向にかってに考えるようにしている。
若いひたむき極まる真摯な数学者が、必死に思考し紡ぎだす言葉は、ビビッドで実に新鮮に初老男の私の中に、まるでさわやかな野にそよぐ風 のように入ってくる。この閉塞極まる状況下に。読んでいて、コトバに触れていて楽しいし、(もちろん愉しいばかりではない)世代を超えて感動を禁じ得ないのである。
良き本は音読力を養う |
氏の言わんとするところをどれだけ理解しているのかは覚束ない限りだが、今の私にはそのことよりも、娘たち家族にすごい数学者がいるよ(あなたたちの世代に近い)と、または五十鈴川だよりを開いてくだだ去る方々に、ささやかに内心の声をお伝えしたいのである。
東京から移住、29歳でひとり京都に居を定め、在野の数学の研究者として生きてゆく決意をされる。ごく普通の一人の父親として親になり、生まれてすぐの手術から、1歳を過ぎてだと思うが2度目の手術、そして退院して書かれた当時2歳半くらいまでの息子さんとの関係性で紡ぎだされる言葉は胸に迫る。
生活者の視点から数学者として世界を、(病院のベッドに置かれている小さき存在者たちにとっての生きる糧としての希望の数学世界の成り立ちのとらえ方の淵源)とらえるために悪戦苦闘し、コトバを紡ぐ。稀な数学者の出現というほかはない。
五十鈴川だよりでは、とてもではないが【数学の贈り物】についての多岐にわたる内容について素晴らしさを記しきれるものではないが、わずかではあれ打っておきたい、のだ。
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