何故だかは分からないが、昨日日曜日午前中、もうずいぶん前に行った、長船にある無人の野菜や野菜の苗 を売っていた売店のことをおもいだし、妻を誘ってドライブがてら行ってみた。
結果、このコロナ渦中、規模ははるかに記憶の中の売店とは異なり縮小されていたがあった。育ててはいない、オクラときゅーりとなす(は育てているのだが)それから妻はレタスの苗を求めた。スーパーで売っているものとは比較にならない、安さと大きさでビックリ、これが田舎に住む良さである。
やはりコロナの影響なのか、我々以外に求める人の姿はいない。めったに夫婦でドライブすることは少ないので(妻は児童館勤務なので土曜日曜の仕事が多く、私とともにのお休みが少ないのである)走ったことのない路をついでにドライブすると、ブドウを各種直接販売しているお店があったので、ちょっと立ち寄ったのだが、これまたスーパーなどで販売している価格よりも安く、二人で食べるには十分のブドウをひと房求めて、その店を後にしたのだが、この店にも私たちだけしか、お客の姿はなかった。
私はインターネットのランキングを見たりしてゆくことはほとんどない。ただ単に妻とドライブがしたかっただけである。晩年の父はどこに出掛けるにしろ、母との二人連れ、まるで小津安二郎の映画のような感じであったが、どういうわけか私もいよいよこれからは、妻との時間を共に大切に送りたいと想うのである。
これから先の未知の時間を、一緒に 過ごせるひとときを大切にしたい、ただそれだけである。共に暮らし始めて35年の歳月が流れたが、このコロナ渦中生活の今、ほとんど二人だけで、家で過ごしている。家の中にいて、お互いの居場所でお互い好きなことをやりながら、一年半以上を過ごしている。
もちろんこのようなことは初めてなのであるが、まったくといっていいほどに不都合はない。もっと打てば二人だけの生活を私は楽しめている。もともと妻は、家にいることが苦にならない、家事仕事、庭仕事他 出掛けなくとも静かな充実を過ごすことができる人なのである。
私はといえば正反対、どちらかといえばじっとしているのが苦手であり、動的なタイプであったのだが、コロナの出来で静的なタイプへと、否応なく変身してしまいそうな按配なのである。まったくもって人は(おのれとは何か)状況に応じて生き延びる器というしかない。コロナ時間の過ごし方で、これからの行く末が決まるのではという気もするくらいである。(心から終息を願いながら)
自分でいうのもなんだが、こうも自分がいわゆるオタクかしてゆくことに順応してゆくことができるとは、意外な気もするのだが、やはりいろんな意味で年齢的なタイミングが、合致したのではないかとも思える。
今日の午後は、クリントイーストウッドの【運び屋】というフィルムを(私はクリントイーストウッドのファンである)たまたま共に、昼食後BSで見たのだが、ことさらな会話がなくとも、妻と共に時間を過ごすということの積み重ねが大事だと、はじめての手術で、死をまじかに感じてから以前にもまして私は考えている。
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