生きていればこその朝が来た。休日の朝はまた一段とうれしい。夜明け前、西のそらにはかけてゆく残月がのぞめる。まだ暗い、この静けさがたまらず私は好きである。起きてそんなに間がないのに、もう五十鈴川だよりを打っている。
この何やらわけのわからない、自己確認ルーティンワークは、打つ直前まで何が打てるのか、おもいが生まれてくるのか、本人にもほとんど判然としない 。うっているうちに、意識が流れ出し、うてるのである。私にとっては、単なる自己満足の域を出ない便りなのだが、数はともかく、読んでくださっておられる方の存在は、やはり老いゆく我が身に火を灯らせる。
単細胞なので、複雑怪奇な人体の構造と機能、脳のシナプスがどのように点滅、つながったり、消えたりするのかは皆目わからないし、もっと打てばあまりそのようなことには、関心がない。
現代を知らない、生きたこともない、昔人たちに限りないシンパシーを私はもつ。(電気も車も電話もないハイテクノロジー以前の社会の、いまわれわれが生きているように、みんな苦悩の中生活し生きていた)その昔人たちの無数の死者たちの声に耳を澄ませることに、これからの限りある時間を生きたいと願う私は、確かに現世に生きてはいるが、感覚的にはもうほとんど死者の側を生きているといっても過言ではない。シェークスピアはじめ短くもギリギリの生を燃焼しつくし、遺された珠玉のコトバは、今を生きる私に限りない勇気をくれ、貧血気味の老体を輸血する。その血は体の毛細血管を刺激してくれると確信する。
思わぬ展開で見切りスタートする【シェイクスピア音読自在塾】は明日我が家で始まる。コロナ渦中なので、旧遊声塾の方たちには、メールで簡潔に伝えた。全員ではないがそれぞれ反応をいただき、この場を借りて深く感謝をつたえたい。これで私の中で、遊声塾から音読自在塾へとすんなりシフト移行ができる。
時代が変わり私自身が変わる。時の移ろいを生きる人の心は無常にゆれる、ヤドカリが殻を変えるように、変身しないと気持ちが悪いのである。おのれを偽ることは、単細胞の私には無理である。これはもって生まれた性格ゆえのことなので、私にはどうしようもない。
コロナ渦中生活の一年半が、思いもよらぬこの時代の推移が、はじめての私にとっての大きな手術入院が、私を変えたのは間違いない。ただ単に愉しい、内なる血が流れない世界への痛みへの想像力が伴わない塾は無理なのである。時代の足音は、私には不気味である。寺山修司の芝居のタイトルではないが【血は立ったまま眠っている】ような塾はやりたくない、のである。
何かを捨て手放し、何かが見つけられるかもしれない世界へと、いざなうのである。よしんば見つけられなくとも後悔はしたくない。いまだ続くコロナ渦中、出発に際して一人の塾生の参加があったことが、やはり決断した大きな理由であること、五十鈴川だよりにきちんと打っておく。
おもいの深さは、コトバの饒舌さではない。短い語彙のメールにも言葉の神が細部に宿るのである。話は変わるが、私は必至で生きている不器用な人が好きである。勇気のある人が好きである。想像の世界では、安全安心は何も生まない。想像の冒険をこそがいまは必要だと思考する。軽薄な私自身を承知している。そのような男の塾に参加者がいるという不思議。在り難いという以外のコトバが浮かばない。
18歳から世の中に出て、時に自己嫌悪に何度も陥りながら(それは今もである)そういう自分と対峙しながら、折々内省しながら、綱渡りのように何とか現在まで生きてきた(これた)という認識がある。
このような私が還暦を過ぎ、遊声塾塾を立ち上げ、閉じ、今また音読自在塾を立ち上げる。生きて在ることのハムレット的存在感のはかなさ、このままでいいのかいけないのかまさに問題はそこだ。
時折どこか自分でも信じられないのだが、一人の塾生の存在はこれまでの私の人生が無ではなかった証のようにおもえ、老いゆくわが体に今ひとたびの情熱の発露を灯す。明日のレッスンが楽しみである。
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