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2021-09-18

台風一過の秋晴れ、3連休はチェーホフに関する本を読んで過ごすことにする。

 思ったほどの風雨もなく台風14号は去っていった様子で、穏やかな土曜日の朝を迎えている。雲に覆われているが、かなたには青い空もわずかに望める。単細胞人間としては、空の割れ目から青空がのぞめると、それだけで雨続きの後の朝は気分がまさに晴れる。

午前4時には目が覚めたので朝湯につかり、コーヒーを淹れ自分にとっての一仕事の決まりきったかのような雑事をすませて 、軽く朝食を済ませてのちの五十鈴川だよりである。

さて、世界文学全集のなかに収められていた、チェーホフの短編小説14作品を読み終え、もっとチェーホフの作品が読みたくなっている私である。医学生の時から生活のために小説を書き始め、後年は劇作に没頭、命を削る様に4大傑作を書き、最後【桜の園】を書きあげた翌年、44歳の若さで亡くなっている。

当時としてもあまりのはやさでこの世ととお別れした運命を、ただただ思う。だが素晴らしい作品が残っている。翻訳で今チェーホフの作品が読める幸せを私は感じている。あの時代のロシアのチェーホフがたどった人生のいくばくかを、本格的にわずかにではあれ、知りたくなってきた自分がいる。

何故チェーホフ作品にこうまで惹かれるのかについて打つのは、もっともっと作品に触れ、もっと学んでからのことにしたいし、そのような時間があればの話に、今はしておきたい。

それよりもゆっくりと、作品を音読したり、集中力のある時間帯に黙読したいと、今はただ思うのである。

生きるために、生活者として作品を書き始めたチェーホフ。文章、作品を売って生活費を稼いだチェーホフ。私もまずは生活者として生きながら、必死で稼ぎ演劇を学び始めたものとしてどこか惹かれる。そして今も老いバイトをしている。

老いつつも生活者の視点からの音読生活、企画者生活を生きたいと考える私にとって、何故かチェーホフ作品は私の心をとらえるのである。ままならない生活に苦悩する 当時の人々の、まさに出口の光が見えず煩悶する姿は、時代を超え、国境を越え、私の心をとらえて離さないのである。

前回も書いたが、まさに今の年齢でタイミングで読んだからこそ、こんなにもチェーホフの書く、置かれた立場、状況での登場人物の語るコトバが、私の胸に響くのである。移ろう肉体、移ろう魂。明確な答えは当時も今もない。厳しい現実がぽっくりとあてどなく茫洋と無限に広がっているだけである。

だが人間は生きてゆくのである。きっといつの日にか希望に満ちあふれた未来がやってくるのだと。チェーホフは明確なコトバは遺していない。(それはシェイクスピア同じ)

だが、人間に対するて哲学的なおもい、観察眼の深さ、存在を持て余す登場人物への 限りないやさしさ、愛情は行間から私の胸に届くのである。だから、私はチェーホフが生きた足跡、当時の時代背景をもっと学びたいと謙虚に想うのである。(元気に過ごせるこれからの時間、チェーホフの短命を想うと背筋が伸びる)

 

 

 

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