今年は3月に手術入院したがために、夏野菜を植える時期を逸したが、それでも退院後わずかな苗を買って植えただけなのに、天と地の恵み、トマトやピーマンやナスが実り始めた。
育てた野菜をいただけるのは老いゆく時間の中での新たな楽しみの一つ、命をいただく。中世夢が原で働いていたころは、このような時間が自分の人生で持てるとは思いもしなかった。自分という不確かな器は、人生年齢と共に生活の中で変化するのである。
時折、自分でも無(不)節操にというしかない気もするのだが、生きるのにどちらかといえば不器用なタイプであると自覚する私は、折々の転機に、それぞれの年代で決断を自分に課し、自分の可能性を求め、鼓舞し、何とかこの年齢まで歩んでこれた(きた)。
そして、今日もまた今日のささやかな思いを打ちながら、流れてゆく五十鈴川だよりを打てるいまを、どこかで感謝する。いつ打てなくなっても悔いはないとの思いを籠めながら。
思えば、1970年18歳で上京してから、いづれも初めての様々な仕事を経験し、生活しながら、苦悩と苦渋のはざまを往還し、青春時代に終わりをつげ、家族に恵まれ、娘たちが巣立って、私はいよいよ老いの佳境に差し掛かり、コロナ渦中の試練の今を生きている。
コロナが出来するまで、61歳で立ち上げた(五十鈴川だよりとほぼ同時に)シェイクスピア遊声塾の週に一度のレッスンに私はかなりの情熱を燃やして、充実した生活を送っていた。だが、コロナの出現で塾は閉じることを余儀なくされ、1年4か月になろうとしている。
突然レッスンができなくなり、当初はかなりの戸惑いが、自分の中にも生じたのだが、世の中に出てからの半世紀を振り返るには、またとない時間を与えられたとの思いに切り替え、思わぬ充実した静かな生活が送れている。
上京し、青春青年時代、演劇舞台芸術やあらゆる文化にどこかで救われながら、渇望、エネルギーをいただき、あまりにも奥深く広い演劇芸術の世界を、かってに学び、生活者として何とか生き延びてこれた、きたとのおもいがある。
田舎者の無知蒙昧の(いまも)若輩が大都会の片隅で木の葉のように風に舞い、何とか生命力を維持できたのは、感動するばねがかすかに田舎者の私の中にあったからではないかと、今にして想う。
だが、生活を犠牲にしてまで芸術や文化的な世界に耽溺したことはほとんどない。あかんと思ったら方向転換、もはやこれまで、と手放してきた。もっと打つなら、時折手放し、またつかむ。そのすれすれを、かろうじてバランスを取りながら、何とか生きてきたのである。
本を読むのであれ、音楽を聴くのであれ、芸術や文化に触れるのは、人間として、生活者としての豊かな感覚を失いたくはないという、どこかで焦りにも似た感覚が、いまだ老いゆきながらも私の中にあるからだろう。人生の旅のお供として、演劇芸術や文化は私には絶対的に必要不可欠なのである。
私の場合、生きてゆく(生活愛)ために本を読むのであり、本を読むために生きてゆくのではない。そのことをはき違えたことはない。生きてゆくために労働し、夫婦協働し、二人の娘を育て(娘たちのおかげで私は親になれた)その娘たちは家庭を持ち、私はふたたび、質素で落ち着いた老境時間を生きている。
そしてコロナ渦中の今あらためて想う。演劇芸術や文化、哲学思想に生活者としてわずかに触れる時間を手放さなかったからこそ、今があるのだということを。そして、今後のこれからの10年(もし生きていれば)、動いて生活する中で、若いころから最も影響を受けた演劇芸術、世阿弥の言うところの老いゆく花、のような生活者としての覚悟の花を、求めたいとの気持ちが(言葉になしえないおもい)湧いてきたのである。
可能な限り身体を動かし、老いバイトをしながら、あくまでも生活者としての視点を失わないように学び、日々を送りながら、(佐渡に流された世阿弥の老境を学びたいと強く思う)お金に振り回されない生活を送るための方図を、先人たちの英知、来し方から学びたいというのが、今後私がますます望むところなのである。だから、シェイクスピア遊声塾は閉鎖することにした。
来年はいよいよ古希、シェイクスピアはもちろん、国内外の世界の宝の主に古典作品、詩、エッセイ、短編小説、ジャンルは問わず、自分が感動し突き動かされた作品(新聞記事であれ何であれ日本語で書かれているいちぶん)を音読できる仲間と、何か始めたいのである。
上手下手ではなく、命の響き、感動するばねがあり、今を生きる問題意識があり、軽やかでしなやかな情熱のある方との出会いを、私の思いを共有できるような方がいれば巡り合いたいのである。
シェイクスピアの音読、若いころから今に至るも、シェイクスピアのコトバ(解釈の多義性、真実は多様に存在する)には、ずいぶん助けられた。地に足が付いた生活者として覚悟の範囲で綱渡りのように情熱を傾けられたのは、私が生活するためには酸素のように必要不可欠であったからである。家族や身近な大切な人たちに、心配や負担をかけてまで、自分のやりたい思いを、優先する愚を、まったく私は望まない。まったく逆に身近な人も伝わるような、生活必需品としての塾をこそ、やりたい。
コロナ渦中の暮らし、激変するパンデミックデジタル世界、四季の移り変わりの中、天の下での体動かし、普遍的な日本人が紡いできた言葉の音色、韻律、間を音読し学ぶ塾ができないかと、夢想するのである。
私はシェイクスピア作品の研究者でも、学者でも何でもない。縁があって好きになった作家がシェイクスピアであっただけである。若いころ演劇を学び、まして、専門家でもない。ただの庶民一人の生活者である。だが、感動力がわずかに備わっていたからこそ、シェイクスピア遊声塾を立ち上げることができたのだと思う。
話は飛ぶ。まだ本にもなっていない翻訳したての、ロミオとジュリエットや、ハムレットを二十歳のころ、文学座の狭いアトリエで見た時の衝撃は、今も忘れられない。ハムレットの演出は出口典夫、ハムレットは江守徹。ロミオとジュリエットの演出は木村光一、ジュリエットは今は亡き太地喜和子。
話がそれた、その翻訳をしたのが後に文学座の養成所で講義を受けた小田島雄志の新訳であった。氏の優れた日本語による 翻訳、軽妙で猥雑な底辺社会の人間の底知れぬ魅力がなかったら私がこれほどまでに笑える、(高尚な教養としてのシェイクスピアのイメージをまったく覆した)シェイクスピア作品にめぐりあうことはなかっただろう。
シェイクスピア作品の翻訳日本語による音読を、60代に入り、思い付きで8年近く続けられたことの、どこか私にとっての幸運というしかない縁で、特にこの数年塾に参加してくださった方々にこの場をかりて心からの謝意を伝えたい。
そして、先のことはあまり考えず、これまでの歩みを生かしながらも、新しい地平へと歩を進めたく念うの である。道があるから行くのではなく、細い道をかき分けながら、足元をみつめつつ。命短し、こいせよ、遊べ。名称を考えたい。
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