朝焼けが美しい夏の朝である。移りゆく夏の雲をコーヒーを飲みながら眺めていたら、何も考えずただ打ちたくなった。
老いの効用というものがあるのだなあ、と最近以前にもまして思うのは面の皮が 厚くなり、少々のことには動じなくなり、喜怒哀楽の感情の起伏が弱まり、薄くなってきつつあるという認識が深まっている。
私はこれをいい意味に捉えようと考えている。今後は可能な限りの範囲で(すでに何度か打った気がするが)努めて気持ちのいいこと、身体が喜ぶことを最優先、身近な人との時間を大事に日々を送りたい。
そのうえで、コロナ後を見据えささやかに生きている。コロナ渦中生活をただ私は静かに生活できている今を、どこかまたとない時間を与えられたのだと、よかったとの思いでいる。
まるで、判を押したかのような行動範囲での生活、だが、こころはどこか自由にときはなたれている蟄居生活を私は楽しめている。だから能天気に五十鈴川だよりが打てる。
家族やほかに、何か予期せぬ事態が出来したら、五十鈴川だよりを打つどころではない。どこかに余裕、遊び心がなかったら五十鈴川だよりは打てない。3月の手術入院でひと月五十鈴川だよりを打てなかったが、いつ何時打てない状況が起こるかは、未知である。
だから、打てる時に思いのままに打つのである。まるで子供のように自由自在に言葉遊びをするかのような、遊ぶ五十鈴川だよりを打てたらなあ、との思いなのである。自由気ままにスイングするかのような、老いのたわごとを、つづり打つ。
そのような戯れ文を、読んでくださっておられる方がいることについては恐縮至極、うれしくもあり難く、この場をかりて深く感謝する。
話を変える。今手元に手島圭三郎全仕事(絵本塾出版)という本がある。もう2週間以上手元で眺め、凝視し、時に声を発し珠玉の作品を 体で感じようと努めている。
この7年以上、シェイクスピア遊声塾で、私の好きなシェイクスピア作品を音読朗誦してきたが、卒音読というのではなく、シェイクスピア作品に拘泥するばかりではなく、今現在の私の体に、こころに染み入ってくる作品を声に出したくなってきたのである。
手術退院後、まるでお告げのように土取さんを訪ね、手島圭三郎という木版画による絵本作家の存在を知らされたのも、何か勝手にお導きを感じてしまう私である。
ゆるぎないデッサン力に裏打ちされた、北海道原始の森に生きる生き物たちの生態の、氏にしかなしえない木版画の素晴らしさに私は魅了された。そして木版画に呼応する、シンプルな表現の、厳粛な言葉にうたれたのである。
恐る恐る、私は自室で小さな声で 【しまふくろうのみずうみ】を読んだ。初めて絵本を読んだのに、気持ちよく音読できたのはなぜなのかはよくわからないが、とにかくスーッと音読できたのである。シェイクスピア作品を読んでいるときとは、まるで体の感覚が違うのである。何か老いゆく体の奥深くで暗示的な啓示のように声が響いたのである。
今私は手島圭三郎さんの絵本の部屋での音読を、コロナ渦中の楽しみとして続けようと思っている。そして折が来たら発表する場を持ちたいとおもうまでになっている。命を削る様に版画を削り、絵本を創り未来の子供たちに伝えようとする、そのお姿に言葉にできないほどの崇高さを感じた。
私にできることは何か。手島圭三郎さんのおもいの一滴でも、声に出して伝えられることがもし出来たら・・・。と私は今思念している。
0 件のコメント:
コメントを投稿