起きたての朝の冷気の中でないと、とてもではないが五十鈴川だよりを打てない季節の到来がやってきた。日中の暑さというよりも、紫外線のつよさが、年齢のせいもあるだろうがこたえる。
だが、そこを工夫しながらしのいでゆくのを面白がれるか、なれないかだと自分に言い聞かせる。もう無謀なことはできない年齢だとは重々承知しながらも、やれるという感覚、やりたいと思う気持ちが湧いてくる間は、一日でも長く肉体労働アルバイトは続けたい。
だが明らかに術後私は、健康管理に 気を回すようになった。無理をしなくなったのである。とにかくあわてず騒がず、ゆっくりと丁寧にと、まるで呪文を唱えながら、努めて足先を意識し集中する訓練とアルバイトを楽しむようにしている。
青天井で体を動かす気持ちよさは、おそらく富良野塾での体験と中世夢が原での体験がなかったら、まずもって体得することは叶わなかっただろう。
どこかでコロナ後を見据えながらも、先のことはあまり考えず、今日一日をいかに過ごすかに腐心する、そのことが一番肝要である。
58キロまで何とか体重が戻り(60キロがベスト)仕事に必要な筋力もほとんど戻ってきたので、半日程度ならなんてことなくこなせるようになってきた。これから夏を乗り切るための体の管理対策をきちんとやりながら、と思案している。
任されているので、自由にお天気任せ、自己責任で働けるのが何よりも在り難い。古希近く、このようにこれまでやってきたことが無駄なく生かせるアルバイトが家の近く(夢が原とのあまりの距離の相違)で見つかるとは。(しかも菜園場と隠れ家付き)
人生、摩訶不思議というよりは、篠田桃紅先生がおっしゃるように、螺旋状に一本の線のように連綿と流れてゆく。亡き父が人がやりたがらないようなことを率先してやる人間になれと、小さい私に繰り返し語ってくれたものだが、その言葉を忘れなかったことが、よかったのだと思える今である。
私が尊敬してやまない映画監督の黒澤明監督が、どんな仕事でも面白がってやっていれば、面白くなるのだとおっしゃっていたがまさに然りである。中世夢が原で最も苦手だった薪割も、体得した。身についたことは頭は忘れても体は忘れない。
文字も手が記憶していることは、度々である。父も母も晩年は病に冒されたが(当たり前のことである)ぼけることはなかった。そのことをおもう時、先のことはわからないにもせよ、手足ををきちんと動かし、まずは歩き、身体全身で考えることをことを楽しみたい。
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