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2021-06-04

我が家の自室とバイト先の隠れ家、庵を往復し、ものを想う。

 6月に入って最初の五十鈴川だより。新聞配達のおじさんのバイクの音で目覚めた。雨である。雨音を聴きつつ何を綴ろうかとしばし思案。私にとっては古希を目前にしての大きな手術のおかげで、オーバーに言えば命に関する感覚が、以前とは異なり鋭敏になっている。

毎朝、目覚めると生きている 感覚を、どこかうまく言えないが体全部で感謝し、手と足をさすり、こすり合わせたのち、ゆっくりと立ち上がり、まず床をたたむ。以前も書いたかと思うが、すっかり今や敬虔な儀式となりつつある。

若い時から、考えるより先に身体が反応するタイプの私としては、同じ自分とは思えないような気がするが、これが老いるということであり、仏教用語でいうところの、林住期から遊行期へと移行している、身体の季節なのだと思い知る。

さて、先週の日曜。長らくほっとかれていたバイト先の菜園場が一面(約10畳くらい)雑草に覆われていて気になっていたので、術後の体力の測定もかねて、ひとりで多種類の手ごわい雑草を 抜き、鍬で耕し、ピーマン、トマト、ナス、を植えた。

その間ほぼ4時間、何とか畑としての体裁をよみがえらせることができたのと同時に、現時点での自分の体の体力測定も量ることができ土と触れる良き時間を過ごすことができた。

このコロナ自粛生活の渦中において、主にしゃがんでの菜園作業場は、いまや私にとっては無心になって身体が動かせる貴重なトポス、人との接触を限りなく避けなければならない世の趨勢の中で、原点回帰思考ができる菜園場時間は、私にとってはいまや救いのひとり時間が過ごせる大切な場所なのである。

このバイト先には倉庫があり、畑を耕す道具がすべてそろっており、休息ができるスペースには机といすがあり、お湯も沸かせお茶も飲めるし読書もできる。

気分転換隠れ場所として、この数年重宝しているが、コロナ渦中生活の現在、私にとっては一段と価値のある居場所となっている。自室と隠れ家の往復方丈生活、今の私にはささやかな砦である。

もっと書けば、この作業場、私にとっては命の庵なのである。小さいころの隠れ家、かくれんぼう場所である。私には高価なものや別荘などは不要である。エンピティスペース、何もない落ち着ける居場所があれば、もうほかには何もいらない遊行期をこそが、私には必要なのである。

畑作業、読書につかれたら、大天井を散歩、大声を出しても虚空に響くだけ、おのれの小さき存在を確認し、術後再び律動している今の自分が感じられる。


 

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