よくぞこのような愚息を見放しもせず、育ててくれたことに関して、あの母のもとに生まれて自分は幸せであったと、この年にして今更ながら想う。娘たちが自立し、孫に恵まれ自分が高齢者の仲間入りをして深く痛感する。
戦前戦後、コトバでは表しきれない、繰り返し訪れたであろう艱難辛苦の中、よくもまあ絶望もせず、5人の子供を育て夫婦二人乗り切ってきたものだと、ひたすら私は畏敬する。あの両親の歩んだ苦難に想いをはせる今の自分がいる。
今世の中はコロナウイルスの話題が多くの国民(諸外国でも大変な状況が続いている)の心を席巻している(かのよう)。我先にマスクを、トイレットペーパーを、とパニック化に走る映像他を、どこか遠くから眺める自分がいる。(だがそんな人たちばかりではないほとんどの人は冷静に暮らしているのだ)
いつの時代もそうだと思うが、困難な時にこそ自分の中の何かが試されるのだという思いが私の中には、ある。もし自分がいざなったなら、といった場合の想像力を持たねばという気がどこかにある。
そのような心根の、端緒覚悟はやはりどこかであの両親からの教えのようなものが、私の中にあるからではないか(とおもえる)。ヒトは抗いえない生れ落ちた時代・運命を生きるほかはない、もっと言うならそこから出発するしかない。自分自身で考え行動するしかない。
我が家の春を告げる水仙 |
若いころは人並みに悩んだりしたものだが、三十路を過ぎ漸くにして、胎が決まってきてからは、物事が好転してきて何とか現在を生きられている、そこにこのコロナウイルスの予断を許さない、人心の寛容に水を差すような出来事が起こり、日夜そのニュースが活字や映像、ネットなどで 報じられると、あの両親ならどう対処したであろうかと、母の命日の朝に思いを巡らすことは、大いに私にとっては大切なことである。
あまたの困難苦境から逃れえなかった膨大な死者の死者の犠牲の歴史の上に、今の我々の飢餓のない暮らしというものが築かれているということへの感謝の想像力は決して無くしてはならないものだ、と念じいる。(方や飢えた暮らし、かたや飢えることなく富を享受できる暮らし、この二極構造の乖離はこの数十年ますますひどくなっている)元気に生きていられる今、余裕があるうちに思考の整理確認をしていておくにしくはない。
話は変わるが、私がシェイクスピアの、かなりの作品に個人的に惹かれ、塾まで立ちあげて今もその詩人の魂の言葉に惹かれすがるのは、登場人物の多くが抗いがたい運命の岐路のにさらされるからだ。いかに生き続ければいいのか、いけないのかという人類普遍の解決されない、答えはないが、生きてゆかなければならないという根本命題が描かれているからだ。(と考えている)
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