こうまで便利でことさら、身体を動かさなくても、機械が代替してくれる時代を生きている我々は、昔だったら掃除洗濯他、ありとあらゆること、全般にわたっていろんな体の部位を使って、辛抱強くやるより他なかった のだろうが、私を含めた現代人はあまりに体を動かさなくなった、気がする。
便利であるのは確かにありがたいが、その分何かが失われてゆくのも また道理である。重いものを持つとか、運ぶとか、靴ひもを結ぶとか、微妙な手先の動きのような感覚が現代人は、弱くなってきている気がしてならない。
翻訳する方によって古典は現代に蘇る |
四捨五入すれば、古希が近い年齢になってきた私だが、他人とは比較するすべもないが、おかげさまで元気に日々を送れている 現実に感謝する。ときおりお元気のですねえ、との声をいただくことがことがある。
自分では人と比較したことがないからわからないが、おかげさまで元気でいられることに関してはやはり手前みそではなく、それなりに体のケアをしてきたからだとの、認識がある。お肌の手入れならぬ体の手入れ。体の手入れといっても特別のことはほとんどしていない。生活する中での体の動きを丁寧にするといったことくらいである。
お風呂でも体の細部、足先の指の間とか、ツボを湯船の中で丁寧に抑え、手先を良く動かす。意図的に私の靴はひもの付いた靴を選んでいる。結んだりほどいたりを毎回繰り返し足とくるぶしを固定する。些細なことだがちりも積もればである。とにかく手間暇のかかることを大事に、事をゆっくりと丁寧にこなすのである。皿を洗ったり拭いたり、生活一般の雑事をあまり機械任せにせず、自分の手先を丁寧に使うのである。
あとは睡眠をよくとって栄養のあるものをいただき、あまりくよくよせず、程よい新陳代謝を促すように体を動かすといったくらいのことしか、とくに私はしていない。幸い、老いてくると体はゆっくりとしか動かなくなる。そこを楽しんでゆっくりと何事もこなすように(歩くことも含めて)心がける。こんなこと若い時には思いもつかなかったことである。ささやかに世界の映り変わり、おのれの移り変わりの中に身を置く面白さを見つける。
そして、ただ精神的なビタミンというか、こころに気持ちの良い読書とか、気持ちが落ち浮くような時間を一日のうちに必ずどこかでこしらえるということの大事を痛感する。まあ、五十鈴川だよりを綴る時間も自己セラピー的な要素がかなりあるのは、自分自身が一番自覚している。
0 件のコメント:
コメントを投稿