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2020-01-31

コロナウイルスの新型肺炎の拡大、猛威、隔離におびえる朝、そして想う。

私のアルバイト時間は毎月決まっている。昨日でその時間は消化した。このところの私は昔と違ってやることがほぼルーティン化、ゆっくりと五十鈴川だよりを綴れる夜明け前時間がありがたい。

さて、今日で一月も終わりだが、コロナウイルスの新型肺炎に関するニュースが世界を駆けまわり、私自身にも日々届く。また、昨日の珍しく起きていて見たオーストラリアの森林火災に関する問題を取り上げていた、クローズアップ現代。何か得体が知れない薄気味悪さを初老男は感じる。

科学者ではないしあらゆることに関してよくはわからないし知らない、一人の人間として直観的に思うことは、世界の真実としてのニュースは、どこかで操作されて流されているのはという懐疑の念が私には強く在る。

豚コレラで現在16万頭の豚が殺傷されているということをラジオの国会議員の質問で知ったが、限られた時間のニュースの中では報道されていない。(私は目にしていない)どこかで人知れず殺傷されているのであろうが、想像するだに空恐ろしい光景である。(鳥、牛の殺傷も)

この数十年の間には、エボラウイルス、SARS,狂牛病、鳥インフルエンザ、等々たぶん私が知らないだけでほかにも。凡人感覚には空恐ろしいほどの理解しがたい難病、奇病が発症している。なぜこうも引きも切らないのだろう、人心が落ち着いてはいられない終わりの始まりが、すでに起こっているのでは?パソコンにもウイルスが侵入し、相手の情報を盗んだり壊したり、パスワードをスキャンし悪の限り。世界は見えないサイバーウイルスが跋扈、見えない恐怖におびえる戦争状態にあるのでは、との妄念が湧く(考えたくないが)。 なぜこうも引きも切らず次々にあらゆる新型ウイルスが発生するのか?

話は変わるが、武器に関する知りたいことなどもほとんど報道されない。ペシャワール会の会報で中村哲先生がクラスター爆弾のような武器を作って平気に使う人間の神経を疑う旨の一文を読んだことがある。まったく同感。

先の大戦では細菌による人体実験を日本軍もしていた。きっと今もいろんな国で人知れず空恐ろしい細菌兵器の実験をしているのではないかとの疑念がわく。人間は核爆弾はじめ、人間の手には負えない、コントロールできないものを作って実際に使ってしまう存在(というしかない)。
土取さんが教えてくれた讃岐が産んだ傑物、私は無知である

(私が読んでいないだけでSF小説や、不条理演劇の世界ではとうの昔に暗示的に舞台化されているのかもしれない)

簡単に作れるという地雷などがカンボジアほか、今も途方もなく埋められていて、それを撤去するだけでも膨大な経費が掛かるうえ、いまだにそれを踏む人がいる。レジ―カッター、劣化ウラン弾はじめわたくしごとき初老凡人男でさえ知っている新兵器の数々(の空恐ろしさ)、兵器飛行機の無人化。

朝から脈絡のない五十鈴川だよりになった。来月から2月である、何か気持ち悪いのは私だけか。何はともあれ新型肺炎が少しでも早期に終息の方向に 向かうよう祈るしかない。(が、増え続けている)

なぜこのようなことを朝から一庶民初老男が書いているのか?わからない。世界がグローバル化、都市化、この数十年の間に、人間の体が(つまり私の体が)健全な感覚をなし崩しにされ、リアル感覚をなくし、バーチャルな体になりつつあるのではないか。そのことにある種の薄気味悪さを、どこかに感じながらもなすすべがなく流されているのではないかという気がするのだ。 だがまだ私は想像し生きている、気持ちの悪いことは気持ちが悪いのだ。最近限りなく、瘋癲老人、でくの坊初老男に憧れながらも、これからの未来時間を真摯に生きている若い方たちと連帯したいとも想う。

2020-01-26

金曜日土取さんとの再会、土曜日中村哲先生のお別れ会に参加して、想う朝。

金曜日夜土取さんと久しぶりに再会の時を持ち、昨日は博多までとんぼ返りで中村哲先生のお別れ会に参加して夜9時近くに帰ってきた。

来月68歳になる私にとって、この二日間の出来事は、もし、後年もっと私が生きた時に振り返ることがあれば、大きかったと思えるように、これから生きる時間を歩まねばならないという、こころもちの今朝の五十鈴川だよりである。
先生の言葉を受け止める力を養い、いつの日にか用水路を見たい

さて、昨日の中村哲先生のお別れ会、西南学院大学の2000人はいるホールは私が会場についた時にはすでに満員で、私は会場ではなく202教室のモニター画面でで式の進行に参加した。かろうじて座ることができたが、立っておられる方もたくさんおられた。素晴らしい式次第だった。何度も目頭が熱くなった。残された御家族のたたずまい、お言葉には胸が詰まった。参加者の雰囲気、がすべてを物語っていた。行けて本当に良かった。

当日の報道では5000人近い方々が、遠く遠方からも参加されていたようすだった。私はペシャワール会の会員であり、非力も省みず、このような方の存在を岡山でも一人でも知ってもらいたく、先生の講演会を企画したご縁のあるものとして、身の引き締まる思いでお別れ会に参加させていただいた。

長々とは書かない。今後もささやかにペシャワール会の会員であり続けたい。生きて現世で、土取さんや中村哲先生に出遭えたことの幸運は、私の貧しい文才では到底記しきれない。だが、たった一言ではあれ出遭えたことに対しての心からの感謝は、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

それにしても、昨年12月の中村哲先生の思わぬ予期せぬ訃報。今年に入ってから土取さんとの思わぬ再会、翌日の中村哲先生とのお別れ会が続いたことは、単なる偶然と呼ぶにしても、私にしてみれば稀な啓示としか思えない。暗示的に考えてしまう。(考えたい)

想像を絶する記録、我が家の宝とする

土取さんとは出会った25歳の時からのお付き合いで、その間電話を直接もらったのは2回目だから、土取さんが私に電話をくれるなんてことは、よほどのことである。前回もそうであったが、土取さんから声がかかるのはめったにない。どこか信頼されているから電話をいただけるとしたら、ありがたいというしかない。

中世夢が原で働いていた時に、土取さんとの出会いを 未知の国への水先案内人という短い文章で書いたことがある。土取さんはいまだ私を未知の世界へと導く。そして中村哲先生もまた。

世界がますます混沌化、カオス化してゆく時代、(便利でテクノロジーが発達すればするほど体は悩む気が私はする)私を含めた大多数の人間が底知れない不安の深淵を感じているが、中村先生の言葉や、土取さんが取り組んでいる添田亜(左に口篇の)蝉坊演歌の世界の歌詞内容をしっかりと受け止める力があれば、おたおたすることはないのである。

今この時代、世界の人間の心の在り様は複雑怪奇さををましている、この一見両極的に見えるお二人の生き方、物の見方考え方、そのとてつもない常人には考えられない実践力には脱帽するが、常人には常人なりのやり方で寄り添いながら同道できる。(と考える)お二人は(中村哲先生は召されたが私の心の中には生きている)これから生きる私の足元を照らす、明かりのような、まるで合わせ鏡のような存在である。





2020-01-25

昨夜私と塾生女性3人で音楽家土取利行さんを囲んでの夕食会をしました、そして想う。

昨夜私が敬愛し、畏怖する音楽家土取利行さんがふるさと讃岐に行く途中岡山に寄られ一泊するとのお電話を5日前いただいたので、本当に久方ぶりにお話をする時間が持てた。

直接電話をいただくのは記憶する限り、知り合って42年で2度目、何事?企画者時代の勘が動く、働く、絶妙のタイミング二つ返事で駆けつけた。

私は土取さんに了解もなく、塾生3人に声をかけ結果的に5人で夕飯を共にしながら3時間以上、異能の人土取利行さんのお話に耳を傾ける、貴重な時間が持てたことをほんの少し五十鈴川だよりに記しておきたい。

私はシェイクスピ遊声塾を立ち上げてから、土取さんの現在を企画していない。企画をするには何よりも心に余裕、情熱がない無理である。中世夢が原を辞してから以後、この7年間は二人の娘の就職や結婚他、家族の大事が次々と続き、私自身に生活に終われ、心身に余裕がなかったので ある。

死者の声に耳を傾ける勇気を持ちたい
が、昨年夏次女が嫁いでから、時間的な余裕が少し持てるようになったので、これもタイミング、土取さんがお元気で自分も元気なうちに何か面白いことが塾生のおかげでできそうな気がしてきたのである。

想像した以上にシェイクスピ遊声塾の何人かの女性が、土取さんがこれまでのやってこられた音楽家としての歩み、仕事に関心を持って参加してくれたことが、(思わぬひと時がもてたことが)うれしかった。

私と土取さんだけでは、このような有意義な時間は流れなかっただろう。そういう意味での塾生の参加は意外な禍福をもたらし、シェイクスピ遊声塾とは単にシェイクスピア作品を音読するだけではなく 、企画したりもする自在な仲間としても存在する多義的な可能性を秘めている、のだと示唆してくれた。

この絶妙のタイミングでの再会、あとはやるかやらぬか、老いの殻をぶち破る企画、娘たちの世代の塾生と共にタッグが組めれば、面白いことが立ち上ってくるような予感がする。あくまで冷静にシフトチェンジ、土取さんを久方ぶりに企画するためのワンチームを作りたくなってきた。今日はこれから中村哲先生のお別れ会に博多に出掛ける。

2020-01-24

還暦を迎えた、妻の誕生日の朝に想う。

妻の誕生日の朝である。出逢って34年、年輪という言葉がよぎる。これまでの人生の中でのあの日の出会いは、はやはり特筆すべき出来事であったのだということが、この年齢を無事に迎えることができて、あらためておもう。

あのとき、吉祥寺のビデオシアターで(そのようなものは今はない)ヒッチコック自作を語るという映画館に、お互い足を運ばなかったら、現在の自分はなかったであろうから。

このような出来事は、後々もっと時間が流れ頭がしっかりとしていたら書きたいとは思うのだが、やはりいくら面の皮が厚くなってきたとはいえ照れる自分がいる。(ので控えめに)

臆面もなく書くが、妻との出会いは何か運命的な流れを私に感じさせる。もしも妻との出会いがなかったら、二人の娘に恵まれることもなかっただろうし、その後の人生を想うときに、出会いの神妙さに粛然としてしまう私である。
妻は私を猫のように家に置いてくれている(きがする)

当時青年期を過ぎて、人生の折り返し地点、途方に暮れるくらいの情けなさを生きていた私にとって、現在の妻との出会いは、思うに福音という言葉が一番ぴったりくる。運命。

もうこれ以上今朝の五十鈴川だよりでは書かないが、 一言でいえば、妻との出会いで、伴侶としての妻の存在のおかげで、劇的に私の人生は変わり、その後の人生を豊かに歩み今を生きている。

ある種のかそけき感慨に初老男の私がふけるのは、やむなしというほかはない。どのような方でも子供が巣立つまでには、山あり谷ありの一時を夫婦というものは共有するだろうが、妻の存在なくして、とくに私のような輩はこのような今の穏やかな、五十鈴川だより時間などは持てなかったであろう。感謝の言葉しかない。

振り返ると、経験したことのない、安定した新しい別世界に、足を踏み入れたかのような妻との(子供たちを含めた)家族としての暮らしは、平凡という非凡さ、穏やかな時間というものの有難さ、かけがえのなさを教え、知らしめ私の人生に与えてくれたのである。

そして想う、いよいよこれからが大切、夫婦二人しての、黄昏行く人生時間をいかに生きるのかを問い続ける勇気を持ちたいと。

2020-01-19

夜明け前、人生の晩秋時間が始まる自覚が深まる朝。

私の好きな夜明け前、家人は寝入っている。このお互いの生活の中での時間のずれがいいのである。ほぼ34年ともに暮らしているが、新たな初老生活夫婦関係に自然な形で移行している最近である。

初老男としては、できる限り妻の手を煩わせないで、お互いに一人ででも生きてゆけるように(やがては車も運転できなくなる)との思いが、手の届く範囲の生活の基本が滞りなくでき、やがて最後は嫌が上でも他者の手を煩わすことが少ないようにとの、ささやかなおもいの深まりゆく年の始まりである。

朝からいきなりこのようなことを書くとは思いもしなかったが、思いもしなかったこと、よきもしなかったことを、時折書いてしまうのだが、わが体は思い通りにはならないのである。お休みの日、起きて間もない時間帯の方がじっくりと余計なことを考えず、かってに指が動き始めたりする。そのことが面白い。


私もシーナ大兄にずいぶん影響を受けました
アクシデントはいやであるが、良き思わぬことは大いに歓迎である。些細でとるに足らぬ極めて当たり前で、普通のことを、あらためて面白がる精神こそが、これからの老いゆく世界を豊かにしてくれるのではないかとの、淡き幻想のようなものが私にはある。

粗忽物の私としては、これまでには経験したことのない未知の老いゆく世界を前にただただ茫然としているだけではあまりに能がないので、考える体力があるうちに、体を動かし、俊敏な思考は叶わぬにもせよ、一日でも長く思考の持続力をキープしたい、のである。

だからなのだろう、写真の整理も余裕のあるうちにやりたいのは。 ゆっくりとできることを、時間をかけてゆっくりと丁寧にやれることを、これからは面白がれる様に生きてゆければ、それが一番今の自分には正直で気持ちがいいことなのである。

だから、ことさらに新しい刺激などは不要である(もう十分に刺激を受けた)との思いと同時に、これからの新しい時間をこそ大切にし、過去の生活時間で生まれた交友関係ほか一切をリセット、再構築し、生きたいとの思いなのである。世は100年時代だとか、かまびすしいが、このような惹句には私は一切関心がない。未来のことはどのような賢者も予測不可能である。

私の中での老いゆく力が、(これまでの私の過去の時間の中で蓄積された力)シェイクスピ遊声塾を立ち上げた時、これまでの自分が情熱を燃やしたことには決別し、私は新しい世界に向かう覚悟を決めたのである。あれからまる8年が経とうとしている。

だからこの8年間、西アフリカへの旅や、さまざま企画プロデュースした作品への思い出など、一切無意識に封印していた。だが、たまたまK子さんがやってきてくれたおかげで、しばし過去にやってきたことの証左写真を前に、自分との再会時間が持てた。タイミングというしかない。だが、過去を振り返るのは前に進みたいからである。

昨日、五十鈴川だよりを書いた後、終日部屋で静かに冬の一日を過ごした。激しく体を動かせた人生の季節が過ぎ、穏やかな秋の人生時間が始まったのである。












2020-01-18

K子さんが我が家にやってきて西アフリカの写真を見てくれ愉しい対話時間がもてました。そして想う。

一昨日午後、我が家に塾生のK子さんが私が撮った西アフリカの写真を見にやってきた。我が家の一階のリビングは昼間は薪ストーブが焚けないし石油ストーブだけでは寒いし、二階の書斎は狭い。だから日の当たる、つまりは一番広い、私のお気に入りの仕事部屋で、とりあえず西アフリカ、ギニアのママディ・ケイタの故郷を訪ねた(1997年12月)写真を中心に見てもらった。こたつに入ってもらって。

詳細は割愛するが、おおよそ3時間、お話をしながら、私も本当に久方ぶりに異国世界に回帰、西アフリカへの旅がわが人生でできたこと、夢の中での出来事の様、世界はあまりに過酷で多様で美しいのである。私の中の記憶のシナプスが動き始め、多々苛酷な試練の旅が思い出された。今となって思うことは、よくあのような旅が実現できたものであるとの思い、天への感謝しかない。

それにしても、K子さんがあんなにまじで私が撮った写真を喜んでみてくれたこと、私が撮った極めて個人的な西アフリカの旅、人々の生活風景写真に見入ってくれたことが、ただたた意外で私にはうれしかった。あらためてきちんと整理して残しておかないといけないと思わされた。

K子さんも想像以上にたくさんの写真があったのに驚かれたようで、まずは写真をゆっくりと見るだけでも半日以上はゆうにかかるので、整理は時間をかけて私も半年から一年かけて、合間合間時間を決めてゆっくりと分類しながら、数人でやってゆこうとのおもいが、私の中での気持ちが、K子さんの思わぬ登場で胎が決まってきた。

もしK子さんが、見たいみたいと 行ってくれなかったら、またしばらくは日の目を見ることはなかったかもしれないと考えると、K子さんにはありがたいという言葉しかない。

来ていただいて、ただ写真を見てもらって世代を超えて、いろんな多岐にわたるお話ができただけでも私には、思わぬ意外な非日常的な時間となり、体力気力があるうちに、いつの日にか人生最後の長い旅に出かけてみたいとの、(静かな自分の暮らし、いまはそれが愉しく面白い)気持ちが一方で湧いてきた。
ギニアのママディのふるさとの写真

意外でうれしかったことがもう一つ、妻も一緒にお茶を飲みながら、我々の会話に参加してくれたことである。よもやまさか3人でのこのような時間が過ごせるとは思いもしなかったので、人と人が出会うということの、妙味相性は神のみぞ知るというほかはない。

まず妻は、ほとんど初対面の人との会話には入り込んでこないので、きっと犬や猫が好きなK子さんとはウマが合ったのだろう。人柄個性というものは天与の物である。ヒトは運命に導かれ、運命を開拓する。何かのお導きは、私の場合だが、感動力という言葉しか思い浮かばない。

単なる田舎者の一青年に備わっていた唯一の感性は、感動するばねのようなものがわずかではあったおかげで、それに縋り付いて今も生きていられるのだと思える。自分の内なる情動に突き動かされてゆくといってもいい。小さいころから痩せていて、虚弱体質で体力がなく、何度も挫折くじけたのだが、あかんと思ったら一度撤退、気が熟するまでまた力を蓄えチャレンジする。

これの繰り返しで生き延びてこられたのだと今は思える。妻をはじめあらゆる人のおかげなのだというしかない。K子さんとの出会いもまた、ご縁である、輪読会をやらなかったら出会うことも入塾もかなわぬ幻と消えたであろう。
美しく着飾ったギニアの村の女性の後ろ姿

高校生の時演劇世界と出会っていなかったら?W・シェイクスピア作品と出会わなかったら?演劇は哲学と呼べる世界最古のもののとらえ方・見方・考え方の肝心な原型、鋳型のように私には思へる。あれから半世紀以上の時が流れたが、狭い思考に陥りがちな、流される(その方が楽で安全ではある)自分に今だ演劇的な思考の柔軟さの大切さを、考えるヒントを、勇気を示唆してくれる。

ママディのふるさとを訪ねたギニア・バランデュグ村での出来事は、私のふるさと回帰に火をつけた。きっとあの体験が、五十鈴川だよりとなり、先祖の聖地宇納間村をその後私が足しげく通うことになったのだと思える。

K子さんが我が家に来てくれたことで、写真の整理の前に、かなり私の心の整理ができ、書いているうちに、文字としてかなり整理ができた。K子さんのおかげである。ヒトは出会い、物を一緒に食べ恥も外聞もなく自分をさらして対話をする勇気を持たないといけないと、初老男は知らされる。

2020-01-16

塾生のK子さんが写真の整理にやってきてくれる朝に想う。

先週と同じように、昨夜は遊声塾のレッスンで遅かったのだがいつも通りに目が覚めた。どこかまだ睡眠が足りないのだが、夜明け前の静けさが好きな私としてはルーティンに従う。
最近これはいい意味で、ゆるやかに緩やかに、老いの深まりのある種の感慨の実感を折々感じるようになってきている。

若い時には居ても立っても居られない、というようなおもいに多々とらわれたものである。感情の起伏も激しかった(父親のDNAを多分に受け継いでいる)が、そのようなおもいが弱くなってきたというか、落ち着いてきたというか、じたばたはするが、その感情をじっと受け止めるようになってきたのである。

これがいいことなのか、どうかはわからない。ただ言葉にすれば、そういう心境にようやく我もなってきたのだなあ、との感慨である。意見の相違や感情の祖語で袂を分けたような方々に対しても、穏やかに思い至れるような、いわばそういう境地になってきたのである。時間はまさに妙薬である。

そういうどことはなしに変化する、自分をできるだけきちんと受け止め、面白く生きられる年よりになりたいとの思いが最近とみにする、だが、面白い年寄りになるにはどうしたらなれるのか、いよいよ普段の暮らしの中で見つめ、考え続けたいと思う私である。
私が23年前企画したアフリカン・マエストロ

ところで、今日は午後ちょっとした珍しい人が我が家にやってくる。入塾して間もないK子さんが私の苦手な写真の整理にわざわざ来てくれるというのである。先日ほったらかしになっていた書斎の整理をいくばくかはやったのだが、ともあれ塾生が我が家にやってきたのは随分昔のこと、いつ以来か。

娘のような年齢のK子さんは、好奇心が強く物おじしない。昨年暮れから何度も写真が見たいとおっしゃる。私にとっては大切な記録写真、そういわれるとやはりうれしい。だから整理もかねて我が家に来てもらうことになったのだ、が、これまで書斎にヒトを入れたことがない。

例えが悪いがいきなり裸を人に見られるような、恥ずかしさを覚えるが、と同時にそんなことは言っていられない矛盾に陥る。だがこのような機会でもないと、また先延ばしになる。私にしては苦渋の選択なのである。絶対矛盾的自己同一。

入りたてとは言え、塾生のK子さんの情熱と人柄に任せようと(甘えようと、一応妻の許可を得て)悩んだ末決めた。普段のありのままの我が家に彼女をお迎えしようと思う。今年は早々から何やら予期せぬ出来事、それもこれも身から出た錆である。




2020-01-13

いただいた年賀状、もうそろそろ義理をかくことにする。

起きて洗面を済ませ、コーヒーとバナナとリンゴをいただき、約一時間、弓の巻き藁稽古をしたのちの五十鈴川だよりタイム。二階のこれを書いている一番お気に入りの部屋には、冬の陽光がまぶしいほどに降り注いでいる。

昨日の朝はどんよりとした冬特有の曇り空だったので、冬の陽のお日様の ありがたさが沁みる。さて、玄関のお正月のお飾りも昨日妻が片付け、私の中ではお正月気分はとうに抜けている。

話題は変わるが、昨年で年賀状は卒業する旨を書いて投函し、五十鈴川だよりでも、もう賀状は卒業する旨を書いている。その代わり、今現在気持ちよく関係性が持続している交友関係や決して忘れてはならない恩義のある方には、短文の筆で描いた年賀だよりを書いている。

こちらが出した方から返事がなくてもまったく構わない。こちらが出したいから出すだけなのである。だが今年も出していない方々から50通以上もの年賀状が届いた。これをどう受け止めたらいいのか考えている。考えた末に頂いた方々の9割くらいの方々には、寒中お見舞いを書くことにしたのである。

出さない1割の方々には申し訳ないが、義理を書くことにした。その理由はくどくどとは書かない。そう決めただけのことである。だから、今日はたぶん午前中はそのことに時間を費やすことになる。

時間の都合で、毛筆ではなく万年筆での一筆になるが、私は万年筆が好きである。とにかく自筆にこだわりたい。私は 悪筆であり、文章を書くのも若い時には本当に苦手で、演劇の勉強を始める18歳までは本を読むのも苦手だった。(好きなもの以外は)だが人間は変わる。

今ではデジタルであれ、手書きであれ、つたなくとも文字を綴らない生活など考えられない。物事を整理し考えるためには
3連休の最後、この方の文章を静かに読みたいと思う
、私の場合本を読むこと以外に方法がない、といってもいい。いただいた年賀状には、やはりその人の柄や、人となりがにじみ出てくる。

私は還暦を過ぎていよいよ人生を振り返り、反省すること多々である。日本人は本音と建前(まああらゆる民族がそうだろう)を自在に行き来し、そのことでもって余計な軋轢ほかを未然に防ぐことに長けた民族である。

かく言う私だってそうである。だが、もうそろそろそういったなれ合い常識的な世界からはおさらばしたいのである。子供のころは年賀状などは書かなかったし、書けもしなかった。移り変わる自分というとらえきれない老いゆく摩訶不思議な存在に正直でありたい、との一念が強くなったのである。

2020-01-12

老いゆく自分と向き合う勇気を日々積み重ねたいと念じる、今朝の五十鈴川だより。

3連休の中日、昨日も犬のメルの散歩に出かけたくらいで終日家で静かに過ごした。平日は雨が降らない限り、毎日午前中は労働のアルバイトで体を動かすので、相当数歩いたり、いろんな部位の体の筋肉を使うので、休日はルーティンでやっていることを30分くらいやるくらいで、あとは弓の巻き藁稽古以外の時間はじっとして時間を過ごしている。

こうまで便利でことさら、身体を動かさなくても、機械が代替してくれる時代を生きている我々は、昔だったら掃除洗濯他、ありとあらゆること、全般にわたっていろんな体の部位を使って、辛抱強くやるより他なかった のだろうが、私を含めた現代人はあまりに体を動かさなくなった、気がする。

便利であるのは確かにありがたいが、その分何かが失われてゆくのも また道理である。重いものを持つとか、運ぶとか、靴ひもを結ぶとか、微妙な手先の動きのような感覚が現代人は、弱くなってきている気がしてならない。
翻訳する方によって古典は現代に蘇る

四捨五入すれば、古希が近い年齢になってきた私だが、他人とは比較するすべもないが、おかげさまで元気に日々を送れている 現実に感謝する。ときおりお元気のですねえ、との声をいただくことがことがある。

自分では人と比較したことがないからわからないが、おかげさまで元気でいられることに関してはやはり手前みそではなく、それなりに体のケアをしてきたからだとの、認識がある。お肌の手入れならぬ体の手入れ。体の手入れといっても特別のことはほとんどしていない。生活する中での体の動きを丁寧にするといったことくらいである。


お風呂でも体の細部、足先の指の間とか、ツボを湯船の中で丁寧に抑え、手先を良く動かす。意図的に私の靴はひもの付いた靴を選んでいる。結んだりほどいたりを毎回繰り返し足とくるぶしを固定する。些細なことだがちりも積もればである。とにかく手間暇のかかることを大事に、事をゆっくりと丁寧にこなすのである。皿を洗ったり拭いたり、生活一般の雑事をあまり機械任せにせず、自分の手先を丁寧に使うのである。

あとは睡眠をよくとって栄養のあるものをいただき、あまりくよくよせず、程よい新陳代謝を促すように体を動かすといったくらいのことしか、とくに私はしていない。幸い、老いてくると体はゆっくりとしか動かなくなる。そこを楽しんでゆっくりと何事もこなすように(歩くことも含めて)心がける。こんなこと若い時には思いもつかなかったことである。ささやかに世界の映り変わり、おのれの移り変わりの中に身を置く面白さを見つける。

そして、ただ精神的なビタミンというか、こころに気持ちの良い読書とか、気持ちが落ち浮くような時間を一日のうちに必ずどこかでこしらえるということの大事を痛感する。まあ、五十鈴川だよりを綴る時間も自己セラピー的な要素がかなりあるのは、自分自身が一番自覚している。






2020-01-09

シェイクスピ遊声塾今年最初のレッスンに想う。

西の空に浮かんでいた月はもう姿を消している。昨夜今年最初のシェイクスピア遊声塾のレッスンを終え家に帰りついた時には真上に浮かんでいた。

平生は遅くとも10時には床に入っているが、レッスンの日だけは体に余韻が残っていて、頭がさえてすぐ休めない。午前零時には床に就いたのだがほぼいつも通りに目が覚めたので五十鈴川だよりタイム。

本当に静かである。頭はまだ胡乱なニュウートラル状態。小さな灯油ストーブで膝を温めながらおもむろに昨夜のレッスンのことを思い浮かべながら書いている。今年の6月20日の夏の夜の夢の発表会に向けて、シェイクスピ遊声塾のレッス 始動した。

全員そろっての初稽古。ほぼ3週間ぶりくらいの稽古なのだが、昨年まで積み上げてきた感じをキープしたままで、全員声が出ていた。そのことにどこか安堵(うれしかった)しこれからの発表会までの、皆の(私を含めて)変化がとても楽しみな稽古初日になったことを記しておきたい。

塾を立ち上げて8年目、私を入れて8人で夏の夜の夢に挑む。(末広がりだ)この数年の皆さんの営為努力、新しい加入者と以前からの参加者との混成融合が、チームワークが実にいい感じで稽古場を包んでいる。
塾生の面々と私が元気なうちにチェーホフの作品も声に出したいと想う

もう一昨年のことになるが 、リア王の稽古場に音楽の担当で忽然と姿を現し、あげくケントの台詞を言う羽目になり、そのままシェイクスピ遊声塾に参加されているNさんの加入が、遊声塾に新鮮な空気をもたらしているのは、私自身が一番自覚している。もっと言えば、非力な塾長の片腕となって冷静に、全体に目を配りながらの稽古が安心してできるのである。

それと、これもNさんの紹介がご縁で、昨年秋に入塾された一番新しい塾生K子さんが、意外とといったら大変失礼だが、 想像以上に初々しく取り組んでおられている姿が、相乗効果を生み、おそらく8年目にしてこれまでで一番いい状態の雰囲気が醸し出されている。

まる7年のあれやこれやの試行錯誤、私の至らなさをカバーしてくれる塾生との出会い、奇縁の深まりは、私の心に謙虚さを一段と植え付ける。この塾生の唯一無二の個性を、現時点でいかに輝かせることが可能であるか。

塾生の身体と心がシェイクスピア作品の言葉にぶつかって、いかに拮抗できるのか、そして一丸となってこのチームで、限りなく険しいシェイクスピアの、あまりに想像力のさえた劇詩、日本語のシェイクスピアによじ登れるのか。

非力な塾長としては、眠ることが大好きなのに、時折今年も何回か眠りの浅い夜を過ごすことになりそうな、最初の夜のレッスンとなった。

2020-01-06

私の中の年明けは、体を動かしての労働から始まる。

今日から仕事始め、というとオーバーだが、アルバイトとはいえ賃金の多寡ではなく、動いて銭を稼ぐということは、生半可なことではないことは、曲がりなりにも18歳からいろんな仕事をしながら糊口をしのいできたので、少しはしみている。

私の場合、銭を稼ぐ手段としての仕事が振り返ると自分を鍛えてくれたのであるとの実感を持つ。このことに関してはまたゆっくりと振り返り、書きたいとのおもいがある。

向き不向きは関係なく、その日を生きるために仕事を選んでなどいられない場合が、(特に若いころ演劇を学んでいて、生活が不安定であったので)多かったので、思いもかけぬ片付けや出来上がった家の、最後のお掃除とかの二日三日の短期の労働も入れれば、世の中には実に多種多様な仕事があり私を鍛えてくれたのである。

結婚し子供に恵まれて安定した仕事に就いたのだが、それまでは実に不安定な生き方を私の場合してきたことになるが、亡き父が男は30歳まできちんと頑張れば、そのあとからでも生きてゆくことができると、言っていたことがどこかで支えになっていた。

今思えば綱渡り、どう転んでもおかしくはない人生を歩んできたのだが、20歳の終わり一度日本を脱出しようとの思いが忽然と湧いてきたときのおもいは、いまだにはっきりと思い出せる。いま思える、言えることなのだが、あの時の選択がなければ 今の私はない。それほどに大きい。

今年も信頼できる方々から謙虚に学びたいと思う
男は30歳くらいまでにその後を生きてゆくための(生ききるための)経験体験、自分なりのある程度の常識的な、自分なりの物の味方を身につけるのではないかという気がする。

朝から思わぬ話になったが、いきなり話題が変わる。年明けからイランとアメリカの関係に緊張が走っている。中東やアラブ諸国の地理や歴史に疎い私なのだが、何かとんでもないことがこらなければいいのだがと、思わずにはいられないほどに、お正月気分が吹き飛ぶほどの、ニュース。

とにもかくにも、穏やかな日常の平和というものを、守るためにもささやかに五十鈴川だよりを書きながら、世界の動向にも一庶民として、ものを想う心をキープしたい今年の始まりだ。熱狂はしても、あくまで冷静に。(とくに一方的なマスメディア報道、その場限りの、深みのない繰り返し刷り込み映像には気をつけないと、人間の感覚は麻痺するので危ない、戦前の映像を見ると、とにかく日本人は一色になりやすい気がする、自分のことだが、国粋的に熱狂しやすい。オリンピックの年だが、金メダルの数ではなく、私は世界の今を生きるアスリートの人間の魅力、人間力をこそ見たい)

時間が来た。私の中の年明けが始まる。

2020-01-04

巻き藁稽古のおかげで、これ以上は望めない良きお正月を過ごすことができました。

お正月のお休みを丸々2週間、ほとんど遠方に出掛けることなく過ごしたのは、多分はじめてではないかと思う。たまにはどこかに出掛けたいという思いはあったのだが、じっとして過ごしたいという思いの方が結果的に勝ったのである。

家での過ごし方で、昨年のお正月とのいちばんの 違いは、今朝もやったのだが弓の巻き藁稽古を一日も休まず続けたことである。昨年のお正月は殆ど巻き藁をしていなかったのではないかと思う。物事には情熱の移り変わりや、自分にとっての向き不向きを含めての、つまびらかにはできない情動が、とくに私には性格的にある様に思える。

正直に書く、岡山の 道場での稽古には自分は向かないのではないかという思いが、初心者教室を卒業して後徐々に湧いてきて、稽古に励む情熱が(シェイクスピア作品を声を出すことや、ほかにもっとやりたいことが増え、時間が必要になってきたことや、家族のことなどいろんな事情がかさなって)消えかかっていた折、故郷
朝日を浴びる巻き藁、私の体にも朝陽が入る
の兄姉の近所にある幸節館の館長I先生に出遭ったときの驚きが、今も私に弓の稽古を持続させている。

先生との出会いがなければ、おそらく弓の的前に立つ稽古は断念していたのではないかと思う。 私がはじめて指導を受けた弓の流派と、故郷の先生の流派とでは構え他の作法が異なる。

少し悩んだが、故郷の幸節館の館長に教えていただくことに決めたのである。I先生の指導を直接受けるのは、故郷に帰省した時だけであるから、せいぜい年に四~五回しかないがそれでも私はひとりI先生の指導を仰ぐことに決めたのである。

そして、再びというか弓をひくという、喜びのようなものがわが心にともり始めたのである。 だから、もしI先生と出会わなければ、多分弓の稽古は断念していた可能性が高い。自室で行う素引きは続けたかもしれないが、どなたかに習うということは断念していた、と思う。I先生の存在感、言葉のおかげで再び情熱に灯がともったのである。

それほどの魅力がI先生には備わっていて、その風格から醸し出される言葉が私の胸を射抜いたのである。旅に出て家を空けたら、巻き藁ができない。数日巻き藁ができなくても大局は変わらないかもしれないが、家で、この数十年お世話になった方々に、お手紙などを書く時間に充てていたら、結果じっと過ごすお正月になったのである。

明後日からアルバイトが始まり、お休みは明日までである。最後のお休み、明日はちょっと 遠出しようかと思案している。

2020-01-02

水の惑星の行く末を凡夫なりに五十鈴川だよりを綴りながら考えたい。

2020年が始まりました。五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方々、謹んで明けましておめでとうございます。今年最初の五十鈴川だよりを綴れるそのことを、まずは何よりありがたいとおもう小生である。

今年もささやかな小さな喜びを見つけながら、身の回りのことがきちんとできるように、まずは可能な範囲での(今更できないことはもうすでに十分できないのですから)生活上の自立を目指すことにする。

簡単な調理や、掃除他の妻との共存がうまく進むように、お互いが老いつつもできるだけ相手に迷惑をかけないようにしたいと、まずは年頭に当たって書いておきたく思う私である、実践できるかである。

さて、大晦日には次女の旦那さんもやってきて思わぬよい年越しができました。今日で次女は帰京するので、お正月気分も薄れてまた静かな我が家にもどることになる。

ところで、元旦昨夜のNHKスペシャル、今年初めてテレビを見たのですが、近年の地球温暖化に起因すると思われる風雨災害のあまりの多発、プラスチックほかのごみ問題、AIによるドローンの空爆兵器の最新映像、テクノロジーの発達がもたらす、表裏のこわさに、凡夫の私はお正月の気分があっという間に吹き飛んでしまった。あと10年で地球環境が臨界状態に達するといわれている現実のデータを知らされると、コトバをなくす。

お正月早々なので、もうこの話題は控えるが、初老男は今年も我が身に絶対矛盾を抱えつつ、まずはささやかに自分に何ができるのかを問いつつ 、この水の惑星のおかげで生きられていることの根源を忘れずに行動し、老いの我が身がこれからの未来人のお荷物にならないように、自分を律してゆかねばと、殊勝なおもいにとらわれる。
もう14年前に手にし、今もそっと手にする

日本はあまりに緑が豊かで、ふんだんに水がある(飲める水をトイレで流す)ので感覚が麻痺しがちであるが、若いころ私がこの目で見たアフリカや、インド他のあまりの過酷な、残酷といっていいほどの、大地との風土も含めた違い、そしてあまりの経済格差にに慄然としたものであるが、その後何十年も日本で暮らしていると、悲しいかなヒトは(私は)忘却するのである。

あの五十鈴川を含め、宮崎県には素晴らしい川が今も多く流れている。宝石のような桃源郷の 川の小さな邦(村)といってもいい。その恩恵に浴し、そのことを決して忘れず自然の恵みに感謝しながら豊かに生き、わがご先祖の地に今も静か生活し暮らしておられる日高具夫妻との昨年の出会いは、私の心に故郷の良心を教えてくださった。

脈絡のない、今年最初の五十鈴川だよりとなったが、余裕のある国の一人として生を受け、特に水や緑に恵まれた山紫水明の国に暮らし、山海の幸に恵まれた国に生を受けたものとして、水に置恵まれない世界に暮らさざるを得ない多くの貧しき民と連携する術を思考する勇気を持ちたい。

NHKスペシャルで一人の発言者が、政治の公約に環境問題を掲げる政治家が日本でも出てきてほしいと語っていた。世界では意識の高い未来をわがことの問題として想像できる若い起業家がずいぶん出てきていることを知らされた。優れたIT起業家たちの出現は希望だ。初老男はこういう若い方たちを心の片隅で応援連携したいと願うのである。

老いゆく我が身のささやかな希望は、若い方たちの希望に寄り添う勇気を持つことである。