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2018-02-26

毎朝の声出しから始まる、我が初老ライフ

インフルエンザから回復して、肉体労働者を辞したために(家族がわが体を心配する、私自身もやれるだけはやった)シンプルライフがより進んでいるわが日々の暮らしである。

母には日々の暮らしの中で継続してやることがあり、私の父も家でじっと碁盤を眺めて過ごす晩年時間であった。さて私はどうしようと、問い直したときに、シェイクスピアをあらためて読むことを思いついたことに関しては、先の五十鈴川だよりで書いた。

おかげで、この丸5年がこの上もなく充実して過ごせていることは、私自身が一番よくわかっている。その間、土に親しむことにも時間を費やしたりしながらである。(春からは母の菜園場が待っている)
お風呂場の水仙

先日、文学座の大先輩で、若い頃数多くの印象に残る演技で、今も私の中で記憶に残る俳優である角野卓三(この字だったと思う)さんが舞台は卒業するとおっしゃっていた。

声が出せなくなったとき、あるいは言葉、台詞が覚えられなくなったとき、あるいは記憶した台詞が出てこなくなった時が、舞台俳優としては、舞台には立てないということだと思う。

これ以上五十鈴川だよりでの、この件に関しての言及は控えるが、いつになるかはわからないにしても、その時がやってきたときに、うろたえながらも、限りなくうろたえないように、今声が出るときに、悔いなく声を出しておこうと、6月の発表会に向けてほぼ毎日、ほとんど朝一時間、リア王のテキストを手に持ち歩きながら、ぼそぼそ、ぼそぼそ口を動かしている。

10分、20分口を動かしながら、車の通れない小道を歩いていると 徐々にまるで、言葉にわが体が、乗り移ってゆくかのような感じになってゆく。自分だけの世界、そんな私の初老姿を、天が眺めている。

インフルエンザ後、私の一日は、声出しから始まるのである。 家に戻って朝食後は、もうほとんど決まったかのように、いろんなことをほぼ一時間交代くらいであれやこれややっていると、妻が仕事から帰ってくるというわけで、私にはほとんど時間を持て余すということがない。

母を見ていると、起きてから夕方までの時間、まるで時間割をこなすかのように、体調管理しながら、過ごしている。

体を動かすということは、つまりは精神(的に自分を乗せてゆく)を動かすということなのである。お金がなくても、物質的な欲望に振り回されず、いかにわが体と心が健やかに過ごせるのかを可能なら極めたいのである。


2018-02-25

母と孫のしばしのお別れの(我々にとっても)夜想。

次女が3月から再就職、引っ越し準備(住居も仕事先もすべて決めてきた)のために、東京から岡山の我が家に、しばし戻ってきているが、それもつかの間、本格的に夫婦二人と犬猫、時折母とでの暮らしになる。

次女は、義母に寵愛を受けて育ったので、母は孫が遠くで生活することをことのほか心配していたので、金曜、土曜と母は我が家に連泊し、しばし4人での語り合い、束の間のにぎやかな、食事時間ほかを過ごすことができた。

どんなに仲が良くても、家族にはやがて必然的に旅立ちの季節が、別れの時が訪れる。宿命、運命を受け入れ、しばし哀しみを乗り越えて生きるほかはない。

次女と母は、ともに5月生まれ、2日違いである。小さいころからまるで自分の子供のように、慈愛を注いできた母の寂しさはいかばかりか、想像するだに、胸がすこし痛む。男親の私には、妻や母の本能的な菩薩的感覚は、悲しいかな限界的に遠い性である。

次女も母のことをとても配慮していての連泊要請となったなったのだが、母は強い。見上げた精神の持ち主であると、あらためて感嘆した。

間もなく85歳、昨夜も編み物(裁縫や編み物の腕はいまだにすごい)をしながら、しばしの団欒タイムを過ごしながらいろいろと、これまでにもきいた話に耳を傾け、相づちを打った。
母が作った湯たんぽ、おかげで私の冬の安眠が保たれる

その母が、床に就く時間が 近づいたころ、これからは自分のために生きると、贅沢もするとまであの母が、発言して私を驚かせたのだが、笑ったのは、続いて、しかしどう贅沢していいのかわからないと、ぼやいたことデアル。可愛いヒトというしかない。

母は、とてつもなく前向きで明るい。いったいなぜかのように、いざとなると泰然自若とふるまえるのかが、私にとっての謎であり、このような母に育てられた、娘と出会うことができ、家族が持てた我が身の好運、運命を何かに(神?)に感謝せずにはいられない。

、かくありたいと私は願う、そして五十鈴川だよりに、記さずにはいられない今朝の私である。





2018-02-23

108円で求めたDVD、ライムライトを45年ぶりに視る、チャップリンの偉大さをあらためて知る。

就職活動で上京し、長女のところに居候していた娘が、約ひと月ぶりに今日帰ってくる。
3月の頭には再び上京し、4月からは保育園の管理栄養士として再就職、再出発することになった。

私としては、娘の自律的選択をただただ見守るだけである。人生の荒波は自分で浴び、その過程で、全身で何かをつかんでいってほしいと願うほかはない。

話は変わる、一昨日遊声塾のレッスンの前、表町に用があり、歩いていたら中古のDVDを販売している店があり、何気なく棚を見ていたら、チャップリンのライムライトが、なんと100円で売られていた。

あまりの安さに驚きながら(チャップリンの作品はそれしかなかった)私は求め 、昨夜45数年ぶりに作品に見入った。ライムライトは私が生まれた歳の作品である。

これまでの人生の中で、自分に影響をあたえた まぎれもない作品の一つである。少年期、思春期、青年期に折々のタイミングで(場所の記憶と共に)みた映像作品は、記憶の中の宝である。
私にとっての英国は、シェイクスピア、チャップリン、ビートルズだ

上京後の数年、お上りさん田舎者の私が 、苦しいかつかつ生活を余儀なくされながらも、何とか今を生きていられるのは、あの当時数々の名作を安い値段で上映してくれる、古い映画館(現在のシネマの雰囲気とはまるで異なる)がたくさん存在していたからである。

特によく通った、銀座の並木座、飯田橋の佳作座、池袋の文芸坐、新宿のアートシアター、三鷹オスカーほかにもたくさん、よく通った。(これまでの個人的な思い出の映画については、生きている間に、元気な間に、つたなくても書いておきたいと思っている)

ライムライトは佳作座で観たと記憶する。そして二十歳のころ、中野好夫訳のチャップリンの自伝を私は読んだ。新潮社版で赤い表紙のなかにステッキを持ったチャップリンのイラストが印象的、当時私にとっては値の張る本で(中野好夫さんはシェイクスピア作品も訳されている)かなりの分厚さだったがあまりの面白さに、一気呵成に読んだ記憶がある。

ケニントンロードは、で始まる書き出しを今でも覚えている。46年ぶり、もう一度読んでみたい。(どこに消えたか手元にはないが、記憶にはしっかり残っている)最近新しい翻訳も出でいるみたいだ。

ところで、いまもたくさんの映画が封切られているが、あんなに胸を躍らせて映画に見入った時代は過去のものとなった。たまにしか映画館に足を運ばなくなったわが暮らしの中、過去、私に影響を及ぼした映画をあらためて家でDVDでじっくりと見てみたいと思う、過去に観た名作は今を生きる私に新たな喜びと感動を与える。

ライムライトは、今私の年齢で見ると改めて胸に迫る。チャップリン演ずる老いた芸人カルベロが素晴らしい、シーンシーンと言葉が。名作とはこういうものだと改めて知らされる。

人生に最も大切なもの、カルベロのセリフ、人生はたたかい【勇気と、想像力と、少々のお金】。名作は時を超えて蘇る、観る者の心が今も健在でみずみずしさを保っていれば、名作は組めども尽きせぬ泉である。


2018-02-22

恐るべき俳優大杉漣さんがお亡くなりになりました、ご冥福を祈ります。

打ち間違いや、変換ミスを満座にさらしながら、五十鈴川だよりを書き続けて、もう何年になるであろうか、かなりの歳月が流れているのを、時折不意に強く意識する。

なぜ書き続けているのかは、自分でも判然としない、が確実に言えることは、いつになるかは当人にもまるで分らないが、突然終わるということである。

終わりがあるから、書くことができるし、死があるからこそ生きられるのだとも、想う。朝からいきなりの展開だが、20代の終わりのシェイクスピアシアター時代、夜のバイト先で何度も(デパートの閉店後の改装、短い期間だったが)所属していた劇団は違ったが、言葉を交わしたことがあり、強く印象に残っていた人、大杉漣さんがおなくなりになったことを、今朝の新聞で知った。

俳句界の大御所であられる金子兜太氏がお亡くなりになった記事が、大きく掲載されている紙面の下の方に、大杉さんの死が報じられていた。

学年はわからないが、66歳と報じられているので私と同じ年である。新聞によれば死因は急性心不全とある。あまりにあっけないというしかない、生と死の境界。
シェイクスピアの作品は現代の先鋭の作家にも影響を与える

年齢が同じで、同じような時代の空気を共に歩みながら、今となっては伝説的幻のユニークな劇団、転形劇場(太田省吾氏主宰、矢来能楽堂で視た水の駅の舞台が忘れられない)で活躍、以後映画やテレビ、映像の世界に活動を移し、独特のオーラを放ち続けた、稀有な味があるというしかない、存在感を存醸感を醸し出す、得難い名脇役が、忽然と消えた。

とにか役柄が幅広く、さりげなく狂気を演じられる、私などには程遠い 感覚の持ち主でああった。若いのに、すでに老成しているかのような雰囲気が、すでにあの当時の大杉さんにはあり、まさか同じ年であったことに、驚かされている。

バイト先での、無駄のない仕事の手際の良さ、この人は頭がいい人だとの印象が強く残っている。そして、いうに言えぬ何かを内に秘めた孤独な後ろ姿、そして優しかった。チャンスがあったら、いつの日にかお会いしたいものだと夢見ていたが、それもかなわぬことになってしまった。

話は変わるが、昨夜はリア王のレッスンだった。リア王という作品は、多面的な狂気にとりつかれた人間の あさましいまでの愛欲強欲、愛の理不尽、不毛な不条理が、横溢、進行し、(とりつかれない人間が生き残る)死の連鎖の果て、リアの死をもって幕が下りる。

穏やかな冬の日差しを浴びながら、大杉漣さんのご冥福を祈る。




2018-02-19

冬季は、冬眠しながらネガティブ・ケイパビリティという言葉を噛みしめる、詩人の言葉に耳を傾ける。

夏の暑さもだが、冬の寒さも年齢を重ねるごとに、こたえる現在の私だが、そのような暮らしの中、若い頃より深く、言葉を味わえるようになってきて、そういう魅力的な言葉を、(人間を)探せる冬時間ははなはだ、大切である。

今後の人生は、冬はなるべく出かけず、出かけても散歩か買い物くらい、(特別な用事や遊声塾、弓は別)じっと家で、まるで冬眠するかのように(つたなくとも)過ごそう、と思い始めている最初の冬である。

五十鈴川だよりを、長きにわたって読んでくださっている方は、ご存知かもしれないが、一月から3月にかけては、個人的な事だが、父や、義理の父、母の命日 、妻や私の生誕日が、交互にやってくる。

個人的にわが性格の 資質として、生と死についての摩訶不可思議さについて、小さいころから、物思いにふける(学校のお勉強よりもはるかに、だからこのような人生を選択した)いざなわれることがいまだに多い、私である(このようなことを臆面もなく書くことは恥ずかしいのだが)。

間もなく、母の命日から丸20年、東北津波大震災、原発事故から丸7年が経つ。60歳の還暦の誕生日を、東北の遠野で迎えてから、あっという間の6年である。

ヒトは、忘れ、思い出し、また忘れる。だがようやく、これだけは忘れたら人間として情けないと思えることが、増えてきつつある。これを私はいいことだと考えている。答えはなくても考え続ける。

そして、 年々個人的な身近な死者のことだけではなく、長くは持続できなくても、紛争や戦争でいまだ各地で、否応なく巻き込まれて亡くなってゆく、無辜の民、特に子供たちの犠牲の死、その悲惨さは映像では流れない、(流さない)、理不尽、不条理というしかないあまたの、死者たちに対しても、忸怩たる思いに時折かられながら、死者たちの側のことを枯れながら想像する。過去の出来事の死者たちのことも。
詩人の発想は時代を撃ち、時代を超える

私が尊敬し、畏敬する方々は、こういった過去の、そして今も、無数の声なき声の、理不尽さや、不条理というしかない死者たちの声を、けっして忘れないで、記憶に刻み付けるような生き方を、されておられる方々である。

20年くらい前、当時まるで何も知らなかったアフガニスタン(ごく普通のイスラム社会の民の暮らし)のことを伝えてくださり、いまも現地でアフガンの民と共に、命を懸けて水路事業活動に取り組む中村哲先生など、その筆頭である。

かまびすしいほどの、冬季オリンピック報道のさなか、パレスチナのガザ地区をイスラエル空軍が空爆したとの報道があった。闇の中で想像する。

もうすでに、私自身思考停止(想像力が枯れてるのかもしれないが)一歩手前状態なのかもしれないが、 揺れる初老男時間を、絶対矛盾を、五十鈴川のように流れてゆくしか今のところ私には方法がない。

そのような暮らしの中で、帚木蓬生氏の本で 【ネガティブ・ケイパビリティ】という言葉を知った、救われる。



2018-02-17

冬季オリンピック渦中の朝に思う。

世の中の大部は、オリンピックの熱に浮かされたような、高揚感につつまれているのかもしれないが、五十鈴川は、無縁とまではいわないが、遠くからそれを眺める感じで、金や銅の数の多さを競ったりする世界には、まるで興味がない。

国力の力を誇示し、水面下での政争の 色の濃いオリンピックには、いつのころからかとんと興味がわかなくなった。1964年、私が中学一年、12歳の時の東京オリンピックの高揚感以後、(エチオピアのアベベ選手は私を 未知の国にいざなった)さほどオリンピックには関心が持てなくなったが、選手個人の魅力は、またまったく別である。

ナチス政権下での、ベルリンオリンピック100メートル、アメリカの黒人選手と、ドイツの白人選手の人種を超え、国家を超えた友情の中での真の意味においての純粋な戦い、映像の世紀で知ったのだが、は胸に迫る。(だがあれから100年以上、世の中はどう変わったのであろうか)

なにか、いうに言えない人間同士が醸し出す、人間ならではのドラマをこそ、私が見たいものである。そういう意味では順位やメダルの数は私にはどうでもいい。

一昔前までは、知る由もなかった未知の国々の選手の人間性があらわになる、身体の表情や言葉でにじみ出てくる生命の輝き、人間たりうる素晴らしさをこそ、私が見たいものである。

今日の一文とは関係ないが今年は次々によい本に巡り合う

どのような世界にも、光と影が付きまとうのが世の中だが、その渦中にあって、純粋絶対の世界が顕現する、 その瞬間のドラマを、あまたの人が無意識に求めているのではないかと、、私もそうである。

話は変わる。にぎやかなお祭り、にぎやかな報道の渦の中で、ほとんど報道されない大事な事、また報道はされても、小さな記事だったり。新聞も半分は私にとってはどうでもいい、広告で埋め尽くされている。

私が時折、悩みながらも新聞をとっているのは、アーサービナードさんの特集 を組むとか、書評、何人かの読みたい記事を書く記者や新しい記者の存在、いま連載されている高村薫さんの小説等々、私の知らない大事なことを、教えてもらえるからである。

しかし、正直どうでもいいような、すでに画面で知った情報があまりにも多く、現代の闇に迫るような、読み応えのある、読者の知らない世界の特集連載、記者の力量を感じさせる記事があまりに少ないのが残念である。

そういう大事な記事を、見逃さないためには、こちらもなるべく新鮮な朝の時間帯に新聞に目を凝らすようにしている。

大事な、感心なことがどうにもなおざりにされ、私自身が思考停止にならなように、との懸念、怯え、懐疑が私に在るからである。

ところで、昨日の羽生結弦選手には私も感動した一人だが、羽生選手は仙台の出身、東北津波原発事故 、大震災を17歳で経験している。その時の何かが、かれの演技に無言の力を与えているように思える。




2018-02-16

冬眠しながら、見えない世界に想像の羽を伸ばす。

この3月から、次女が転職し、娘たちは二人とも東京暮らしをすることになり、二人で暮らすには身に余る家で基本的に妻との二人暮らしが始まっている。

娘たちが使っていた、2階の部屋がガランとあいたので、今のところ何もない空間として、利用している 。弓の素引きをしたり、ストレッチをしたり、声を出したりと、つまりは気分転転換非日常の部屋として、特に冬は寒風を避けて、家の中を移動し、生まれて初めてともいえるたっぷり孤独時間を、私は楽しめている。

インフルエンザのおかげで、じっと家で過ごす時間が増えたのも、ありがたいことだととらえている。いい歳なのだから、あれもこれもは無理なのである。とにかく最優先は、塾生のためにも、まず何はともあれ、水曜日穴をあけないように私自身が健康であらねばならないと、以前にもまして体調維持に気を付けている。

それにはとにかく寝ることだと考え、目が覚めても8時間は床の中で、じっとしている。以前は早起きで、目が覚めたらすぐに起きて五十鈴川だよりをかいたりしていたのだが、そういうことは、とんとしなくなった。

緩やかに老いるということは、つまりはこういうことなのだ。以前は普通にできたことができなくなる。だが、これをマイナスに考えるのではなく受け入れ、あらゆることをゆっくり確実丁寧にやってゆくのである。
すっかりアーサービナードさんにはまっています、

時間はかかるが、時間はたっぷりあるのだから、急ぐ必要はどこにもないのである。ゆっくりの効用は、乙な気付きの深まりである。

ありがたや、ありがたや、とのたまう回数は若い頃の比ではない。母は平凡な日々の有難さを、いつも口にしているが(それは苦労を乗り越えてきているからこそなのだ)、お手本がそばにいるのだから、ただただあのように生活できる動く身体の持続こそが、老い楽ライフの要諦と教えられる。

老いてまで、あれもこれもと欲張る御同輩も多々いらっしゃるが、(それはそれで結構)私には縁遠い。何もない、何もしない、でも見えない不確かな心の中では何かする。

うまくは言えないが、物質的というか、実利的な世界からは(いまだ煩悩的世界をさまよいながらも)できる限り遠くに身を置きたいと考える、最近の五十鈴川である。

リア王、目をえぐられたグロスターのセリフ【目が見えた時はよくつまずいたものだ】、若いころから、つまずき続けたこの私、ようやく迎えたこのなんとも味わい深い老いゆく時間、見えない世界に耳を澄ます感覚をこそ、深めてゆきたい。



2018-02-15

シェイクスピア遊声塾を立ち上げて5年が経つ、そして思う。

昨夜はシェイクスピア遊声塾のレッスンだった。遊声塾を立ち上げてもうすぐ丸5年、よく我ながら続いたものだ。なぜ続けることができたのか?それは塾生がいてくれたからである。
情熱の持続の根拠は、若い頃、最も悩み多き20代の後半、シェイクスピアシアターで開けても暮れてもシェイクスピアの長いセルフと格闘した、打ち込んだ時代があったればこそ、シェイクスピア遊声塾を思い付き、継続できているのだということが、解る。

子育てを終え、還暦を迎え、退職後、これからの 長寿社会をいかように目的をもって、有意義に生きてゆけばいいのか、当の昔に青春時代を終えた私は、老春を、まさにハムレットのように私自身に問いかけた。

結果、思いついたのが、再びまっさらな気持ちで、シェイクスピアを声に出して読む塾を立ち上げることだった。がしかし、私の思いついた遊声塾に参加してくれる塾生がいるだろうかとの不安はぬぐえなかったのだが、とりあえず3年間はひとりででも声を出し続けようとの覚悟が定まり、シェイクスピア遊声塾はスタートした。
奇特な塾生に頂いた飛び切りのチョコ(感謝)

30年ぶり声を出し始めた当初、私の体は全くさび付いていた。声に体がまるでついてゆかないのだ。それでも毎週、毎週決まった日、決まった時間、時に私と塾最年長のY氏と二人だけで体を動かし、声を出し続けた。 (Y氏の存在がなかった廃塾していたかも、氏には感謝の言葉しかない)

ようやくにして3年目あたりから、老いつつも、かすかに若かりし頃の感覚が、身体の奥の方で蘇ってきた。それとともにがぜんシェイクスピアを声に出して朗誦することの喜びが、若い頃に読んでいた時よりも、はるかに愉しいという、逆転現象がわが体に起こってきたのである。

それはこの30年間、生活者として生きてきた人生経験時間が、より深くシェイクスピアを声に出して読むことに、大いにプラスになっていることに気づいたからである。若いころよりも、はるかに深くシェイクスピア作品を味わえるのだ、そのことの喜び。紆余曲折、かすかに無駄なく一本道は続いているのである。人生には無駄はない。

3年前、Iさん(感謝しています)という女性が見学に来られ、入塾され、いまでは貴重な仲間として、苦楽をを共にしているが、そのIさんの友人が、今年のリア王の発表会に生音で、音楽を担当してくださることに、急きょ決まり、(ほんとうに何が起こるかわからない、未知との遭遇)遊声塾にも参加したいとのことで、塾生は6名になった。続ける中に福有、自分を信じる。

昨夜、私も含め7名でリア王を読んだのだが、この岡山の片隅で、今現在このような奇特な塾生に巡り合えた幸運を、芸術の美の神に感謝した。6月の発表会が楽しみである。


2018-02-13

2月12日、詩人として人間として、畏怖するほどに敬服する活動をされている、アーサービナードさんのお話を聞きました。

2月12日、妻が、たまたま福山でアーサービナードさんの講演会があるとの情報を得て、昨日妻と85歳の母と3人でお話を聞きに出かけた。

午後2時過ぎから、2時間半アーサービナードさんは、立ったまま休憩なくお話をされた。講演タイトルは、最新刊のビナードさんの本、【知らなかった僕らの戦争】平和って無知のままいること?である。
これからはビナードさんの本もシェイクスピアのように声に出して読みたい

そのお話の内容は、研ぎ澄まされた日本語と英語の両方を、自在に行き来できる感性というか、持ち主にして初めてなしうるのではないかというほどに、ビナードさんが独自に見つけた、詩人感覚というしかない言葉への探求心、好奇心があればこそのスリリングで初めて聴くお話満載で、驚き聞き入った。

ビナードさんはまるで名探偵コナンのように、言葉を手掛かりに3月10日の東京大空襲、8月6日の広島 、8月9日の長崎の原爆投下投下の真実について、またそれに先立って、ニューウメキシコで行われた人類初めての原爆実験、長崎以後にもマーシャル諸島(穏やかに人々が自給自足で暮らす夢のように美しい島で)のビキニ岩礁で行われた核爆発実験の真実を、ときおりユーモアを交えて、まるで司祭のように語り続けた。

自分が知らないお話の連続というか、私自身の無知があぶりだされてゆく2時間半のお話だった。

アメリカで市販されているATOMIC・FIREBALL・CANDY

私がアーサービナードさんに関心を持ったのは、2013年だったと思う。東京の都立第五福竜丸展示館に出掛けた際、そこで【ここが家だ】・ベンシャーンの第五福竜丸・という絵本を求めた時である。

絵本によれば、第五福竜丸はビキニ環礁の近くではえ縄漁をしていた。3月1日の夜明け前、西の空が真っ赤に染まる、乗組員23人はアメリカの水爆実験(広島の1000倍の威力がある)で被爆、命からがら2週間かけて静岡の焼津に 戻る。その年の9月23日、無線長の久保山愛吉さんはなくなった。

驚かされるのは、アメリカ人のベンシャーンが(日本に原爆を投下した側の)画家として最後の連作で、第五福竜丸の船長であった久保山愛吉さんを主人公にして描いているが【ベンシャーンはこう語っている、放射能で死亡した無線長は、あなたや私と同じ、ひとりの人間だった】という人類愛に根差した、平和的当たり前普通の人間の価値観でもって、核の不条理というしかない恐ろしさ、不気味さを、石の線でもって刻み、表現、告発し普遍的に芸術作品として昇華していることである。だから胸を撃たれる。

 絵本の構成文と、ベンシャーンについて書いておられたのが、これまたアメリカ人のアーサービナードさんだったことの驚き、ビナードさんの言葉【石に刻む線】、私はベンシャーンという芸術家の存在をビナードさんを通じて初めてこの絵本で知った。

また、絵と文章によるアートの力で、核の恐ろしさを、絵本の力でこのときはじめて知った。

私は、何としてもこの絵本にビナードさんのサインがほしかった。少し早めに会場に入ると、ビナードさんは会場の一角に座って待機しておられたので、すぐにビナードさんのところにゆき絵本に サインしてほしいとお願いした。

疲れているご様子であったが、気持ちよくサインしてくださった。驚いたのは、漢字も実に堪能で、日高のたかは、はしご高ですか?と訊かれたことである。

会場ではビナードさん関連の著書が販売されていたので、もうすぐ出産予定の長女へのプレゼントに、二冊の絵本(みんなみんないただきますとさがしています)、妻へのプレゼントに(もしも詩があったら)求め、講演会を終えてからすべての本にサインをいただいた。

ところで、今日は私の生誕日だ、昨日は65歳最後の日だった。私が最初に求めた【ここが家だ ・ベンシャーンの第五福竜丸】2006年の9月30日が初版、私が求めた本の奥付は、2012年の2月13日、第10ずり発行である。今日はビナードさんの本を静かに読んで過ごそうと思う。




2018-02-12

畏怖するお仕事継続された石牟礼道子さんがお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

わずかしか読んだことがないのに、石牟礼道子という名前の作家の存在を、どこか遠いところから畏怖していたが、その誰もがなしえぬすごいお仕事をされた方が2月10日にお亡くなりになった。

自分がこの年齢に達して、初めてようやく読む気になってきつつあるほどに、時代の趨勢に流されない、石牟礼道子さんにしかなしえない地の底からの、寄る辺なき民の声を、文学詩人としてなした、お仕事の素晴らしさには言葉がない。

時代にあらがい、真の意味で声なき民の声を救いあげ、聴きとり寄り添い、その闇に埋もれてゆきそうな水俣の民の消えゆく言葉を 、文学の言葉として昇華、普遍化したお仕事は、これから時代が混迷を深めれば深めるほど、闇の中で光り輝くに違いない。

その遺された石牟礼文学の言葉の光を、ようやくこの年にして浴びたいと心から感じ始めている情けない私である。
池澤夏樹さんの解説が素晴らしい

考えてみると、高校を卒業後の1970年、18歳、田舎者無知丸出しの私は上京後、大都会で時代の渦の中、その片隅で世間の風を浴びながら弱者の側に否応なく投げ込まれ(自分でそういう人生を選択した)ながら、なんとか生き延びて(きた)こられたいう認識が、かすかに在る。

だが石牟礼道子さんが救い上げた声なき民の声は、まったく次元が違う。否応なく不条理というしかない状況を生きざるを得ない、真の意味での弱者の声である。

現代の社会状況の中で、このような権力や強者の論理に惑わされない優しいというしかない言葉を持たない民の声を代理する、何より人間として思い至れる、菩薩のような魂を持った文学者の 存在は希望の光、稀有である。

いよいよの晩年時間、私は石牟礼道子文学の言葉を折々あび、社会的不条理の側の民の声に一庶民として耳を澄ませたい。

こころからご冥福を祈る。

2018-02-07

辺見庸さんの言葉に撃たれる、そして思う。

いきなりだが、最近時事的な事や、政治的な事に関してはほとんど五十鈴川だよりでは触れていない。空疎な自分の言葉を持たない政治家たちの(すべてとは言わないが)言葉のやり取りを聴いていると、絶望的になるのである。

関心がないわけではなく(あらゆることに関していまだ野次馬的には関心を持ってはいる、政治経済あっての我々の暮らしだからである)書こうと思うと、気分が滅入ってくるので、はなはだ個人的な思いつく身辺雑記的出来事を主に連ねる五十鈴川だよりに、なってきつつある。

何が起きても不思議ではない、魑魅魍魎面妖な時代の趨勢のさなか、同時代を生きながら、年齢を重ねながら、否が応でも人間は態変を繰り返しながら、生き続けるほかに、私にはほかに今のところ方法がない、という気がしながらも、未だどこかあきらめきれない。優柔不断な自分と対峙している。(老いつつも感性の鈍麻にあらがいたい)

歳を重ねると、いわば自然に枯れてきて、悩みやこだわりのようなものも、少なくなってくるのではないか、あるいはなるようにしかならぬという、達観的な境地にでも近づくのではないかとの思いがあったのだが、どうやらその思い




は、まったく今のところ外れている。

以前も書いたかと思うが、私はますます無所属一個人に徹しながら、中世夢が原を退職してから、自分なりに模索しながらの生き方を選択している。豊かさとは、貧しさとは、幸福とは、平和とは・・・?

カッコつければ、あえて時代の趨勢には限りなく遠いところに身を置きながら、何とか自分にとって、気持ちのいいところで呼吸しながら、ゆるやかに自然に枯れてゆきたいのだが、なかなかわが体は、精神は、そうはさせてくれない、絶対矛盾を抱えこみながら、そういう自分から逃れられないのである。

辺見庸さんという、論客というか 言論人、作家がいる。私の書棚には氏の本が、数えたら10冊在る。今その本を傍らで眺めながら、五十鈴川だよりを書いている。

朝日新聞社刊、屈せざる者たちを買ったのが1996年、(私がアフリカンマエストロを企画した年、あれから22年、時代の推移は目を見張る)角川から出た単独発言の奥付2013年、以来氏の本を買っていないが、時折気分がなえそうになった時、氏の視座のぶれない確かな発言力に勇気を得ている。そして学ばせていただいている。

貴重というか、まさに稀な絶滅危惧種的な真の意味でのジャーナリスト魂を持った方だと畏怖している。

インフルエンザで肉体労働者から、一時撤退しているので、このところ、手すきの時間に氏の想いの底から、絞り出した文章に触れて、我が身を鼓舞している。

人間の良心の底からの文章は古びない。新鮮である。わがささやかな本棚には、これからを生きてゆくために必要な、繰り返し読むに堪える、私の精神を鍛えてくれる本が十分にある。

繰り返し読み、逍遥する。日本で一番最初にシェイクスピア作品を翻訳した文学者は、坪内逍遥である。日高逍遥とあやかりたい>

2018-02-03

2月2日夜、福山のライブハウスで【松田美緒】さんの歌声(独自の歌世界に)にひさかたに感動しました。

昨夜、福山のとあるライブハウスで行われた、松田美緒さんの歌のライブを聴きに出かけた。一言では、表現し兼ねるほどに自在に、ボーダレスに、越境しながら、天真爛漫に人類にとっての歌世界を旅する、異能の歌者、忘れられない夜となった。

私が岡山に移住してから、今年で26年目になろうかとしているが、福山まで歌を聴きに出かけるのは、私の記憶では2回目のことである。【ハイチの女性歌手以来)

この十数年以上、私はライブで女性の歌を聞いたこともなかったし、よもやまさかこのように魅力的な、歌声を醸し出す歌姫に出遭えるなどということは、今の時代、まったく予想だにしてもいなかった。(いまという時代だからこそこのような歌姫が出現したのかもしれない)

昨年シアターXで行われた、私が知らない演歌のルーツを現代に知らしむる、土取利行さんが果敢に取り組んでいる、添田唖蝉坊の歌世界の、明治大正の女性の歌を唄う特別ゲストで招かれていたのが、松田美緒さん歌声との邂逅である。

その後昨年9月に行われた、土取さんが毎年行っている郡上八幡音楽祭での、西アフリカの素晴らしい音楽家たちとの共演が【マリの弦と歌声による】2回目。(これもすばらしかった)
昨年秋郡上八幡で録音された、土取さんと美緒さんの奇蹟の即興ライブ

そして、今年お正月気分も冷めやらぬ、1月13日に再びシアターXで行われた、土取利行さんの添田唖蝉坊の歌の世界のゲストでの歌声が3回目。(日本人移民の歌に添田唖蝉坊のラッパ節が歌われていたことを昨年秋、ブラジルでの旅で知った、松田さんによる驚きの発見とリポート、出会いと奇蹟の連鎖、人類は歌と共にある、理不尽な暴力や圧力は本質的に何事も解決しない)

昨年から今年にかけて4回も彼女の、歌声を聴く機会が 続いたことの、有難さ、喜びを、何としても、ささやかにわが五十鈴川だよりに、記さないではいられない私である。

土取利行さんと松田美緒さん、異能者同士のコラボレーション。まさに出遭うべくして出会った二人の世代を超えた活動は、今を生きる私にとても勇気を与えてくれる。(そのことに関してはまた時間を見つけて書きたい)

松田美緒さんの活動に関しては、是非インターネットで、注意深く検索してほしい。私の取り急ぎの拙文では、とてもつたえられない。

ところで、昨夜はピアノと彼女の歌声のみシンプルなライブ、サンバを始め私が聴いたこともない歌ばかりであったが、あまりにも声音が自在で自然で (風や波の音のように作り物の声ではない)小さい、かすかに漏れる息音が体に沁み行ってきた。

ライブハウスならではの極上さ、贅沢な時間に初老男の躰はつつまれた。歳を重ねる中で見つけた歌姫の今後を可能な限り、聴き続けたい。

2018-02-01

シェイクスピア遊声塾、全塾生に感謝します。

昨夜2週間ぶり、シェイクスピア遊声塾の今年になって2回目のレッスンを、何とか行うことができた。(緊張感のあるレッスンはあらためてかけがえがい)

私を含めて5人でのレッスン。私のコンディションが良くない中でのレッスンではあったが、何とか集中を持続しながら終えることができた。

厳冬期のさなかに在って、情熱をきらさず、私の時に厳しいレッスンに、ついてくる塾生の存在は、いまだ私を変化させ成長させてくれる。指導するには、私自身が万全の体調でないと、努力し勉強しないと、まず無理である。
特に今年から主に長いセリフを書き写すように心かけている

話は変わるが、先週塾を立ち上げて5年目で初めて、インフルエンザでお休みする旨を、塾生に伝えたのだが、全員からわたしのからだを案ずる暖かい返信をいただいた。

改めて、このような塾生に 今現在恵まれていることの有難さが、染み入ってきた。心の襞をさらして、人間の感情の阿修羅を、シェイクスピア作品を声に出して読むことは、やはり生半可ではない、集中力と持続力の修養が不可欠なのである。

裡に秘め、声を出して、恥をさらして、魅力的な登場人物の言葉を、自分の体を通して表現してゆく情熱は誰でもが持ちうるものではない。

シェイクスピア作品の魅力を伝えるには、自分自身を甘やかさず、鍛えないと出ては来ない声色、人間の感情の機微を、魔法のような言葉のレトリックを自在に読むには、身体に鞭打って自分の声と格闘する以外に、ほかに方法がないのである。

このような時代の趨勢のさなかに在って、厳しいシェイクスピア作品の、峻険な言葉世界に挑戦し続けている塾生の存在は、はなはだもって私には貴重であり、私に勇気と希望を与える。

先のことは神のみぞ知る。いつまで声が出せるかはわからない がとりあえず塾生の存在がある間は、宝石のようなシェイクスピア作品の登場人物の言葉を塾生と共に声に出し続けたいと、レッスンを終え家に帰る道すがら、改めて自分に確認した。