母には日々の暮らしの中で継続してやることがあり、私の父も家でじっと碁盤を眺めて過ごす晩年時間であった。さて私はどうしようと、問い直したときに、シェイクスピアをあらためて読むことを思いついたことに関しては、先の五十鈴川だよりで書いた。
おかげで、この丸5年がこの上もなく充実して過ごせていることは、私自身が一番よくわかっている。その間、土に親しむことにも時間を費やしたりしながらである。(春からは母の菜園場が待っている)
お風呂場の水仙 |
先日、文学座の大先輩で、若い頃数多くの印象に残る演技で、今も私の中で記憶に残る俳優である角野卓三(この字だったと思う)さんが舞台は卒業するとおっしゃっていた。
声が出せなくなったとき、あるいは言葉、台詞が覚えられなくなったとき、あるいは記憶した台詞が出てこなくなった時が、舞台俳優としては、舞台には立てないということだと思う。
これ以上五十鈴川だよりでの、この件に関しての言及は控えるが、いつになるかはわからないにしても、その時がやってきたときに、うろたえながらも、限りなくうろたえないように、今声が出るときに、悔いなく声を出しておこうと、6月の発表会に向けてほぼ毎日、ほとんど朝一時間、リア王のテキストを手に持ち歩きながら、ぼそぼそ、ぼそぼそ口を動かしている。
10分、20分口を動かしながら、車の通れない小道を歩いていると 徐々にまるで、言葉にわが体が、乗り移ってゆくかのような感じになってゆく。自分だけの世界、そんな私の初老姿を、天が眺めている。
インフルエンザ後、私の一日は、声出しから始まるのである。 家に戻って朝食後は、もうほとんど決まったかのように、いろんなことをほぼ一時間交代くらいであれやこれややっていると、妻が仕事から帰ってくるというわけで、私にはほとんど時間を持て余すということがない。
母を見ていると、起きてから夕方までの時間、まるで時間割をこなすかのように、体調管理しながら、過ごしている。
体を動かすということは、つまりは精神(的に自分を乗せてゆく)を動かすということなのである。お金がなくても、物質的な欲望に振り回されず、いかにわが体と心が健やかに過ごせるのかを可能なら極めたいのである。