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2015-09-07

蛇行しながら、五十鈴川だよりは、ささやかな平和をかみしめ生きる。

何やらやはり夏の疲れが出ているような気がしている。そんなことを書くとやはり歳なのだというしかないが、この4日間ブログを書く気にならないくらいにあちらこちらと、移動したり体を動かしたりしていたものだから、その疲れで何も書く気がおきなかった。

が、昨日の朝は ちょっと時間もあったし書きたくなって、この夏新聞で知った、【竹内浩三】という詩人(藤原書店から全集が出ている)の詩が掲載されていた。

【いくさにぼくも征くのだけれど】と【骨の歌う】という二編の詩の抜粋を写しアップしたのだが、きちんとイメージどおりにはアップされなかったので消去した。

とても心にしみた詩だったので、五十鈴川だよりを開いた方は、竹内浩三という詩人をご存じなき方は、こころに留め置いていただけると嬉しい。

こういう心優しき持ち主が、戦場に送られる可能性が出てくる安全保障法案には、何としても私はひとりの人間として反対である。

五十鈴川だよりは、長い文章が多いけれど、短い文章ではわが想いは伝えきれないし、きわめて個人的な、あるがまま自然体、自分の中の書ける範囲での正直な(不正直も含めての絶対矛盾)思いを込めたブログなので、読んでくださるの方の多寡ではなく、個人の揺れ動く発露として受け止めていただければとの思いだ。

このところのシリア他からの難民の EU諸国(中でももドイツ)を目指すニュースが伝えられる。その切り取られた映像の一部は、私の琴線のどこかに届く。(世界はあらゆる真実で満ちているが、その真実はほとんど編集されているので、私は片目でしか見ない、信頼できる人のサイトを読む)

世界で起こっていることから目をそらさない感覚を、元気な体で受け止められる間はささやかな一滴であれ、五十鈴川だよりに書いておきたい。(いつ何時我が身に訪れてもおかしくはない時代を我々は生きている)

ところで1万3000人の兵士と、最新鋭武器による中国の軍事パレードの示威行為は私を沈黙させる。旧ソ連時代の軍事パレードの映像も若い頃何度も見た記憶がある。そのたびに私はある種の虚しさをいつも感じていた。(一段とその思いは深まる)

そうこうしながらも、表面的な平和はあれから40年以上 も続き私も歳を重ね、(平和に慣れすぎている)再びなにやらひたひたと、真綿で首を締めるかのように、平和を脅かす脅威が忍び寄っている気配を私だけではなく、特に若者たちが感じ行動し始めている。(そこに可能性を見る)

私は一部の若者たちとすごく連帯したいがために、この夏2回足を国会議事堂前に向けた。必死さの発露はかけがえのないものだ。そして持続することのむつかしさ(ゆっくりと見守りたい)

国会議事堂前に行けなくても、こうして五十鈴川だよりで応援したいし、応援することで私もまた活性化し今を生きることを連帯し共有できる。(お年寄りが元気でない社会、若者が生き生きしていない社会は未来がないと考える、その根本は素直な健康体にしかない)

話は変わるが、ハイテクノロジー文明社会に対しての私の本能的違和感は、おおよそ40年以上続いている。

その最たる恐怖が核弾頭ミサイル社会、(死の商人、あまたの信じられないおぞましい殺傷兵器の数々、悪魔に魂を吸い取られた人間がかくもこの世には存在する)武器資本主義社会だ。口では命の大切さを唱え、裏では金まみれの亡者たち。だが落下すれば、何十億もするオスプレイや、ドローンの無人機も、ドローンと消える。

あれだけの天文学的なお金を、砂漠化する土地に植えたら、傷んだ地球は喜び、あらゆる微生物生命体は復活するのではないか、私はとんちんかんなことを考える。私の体には数億の微生物が住んで、生きている、つながって。

戦争と共にテクノロジーは発達し、表裏の関係で原子力発電も平和利用の声の中で、世界中に今も作られている。

しかし、そのデジタルテクノロジーは生命体にとって生かされているる方にこそ、英知を絞ってほしいものだ。深い哲学に裏打ちされた、ハイテクノロジーデジタル社会であってほしいものだ。

いったん不測の事態が起きれば制御しきれないことが 、チェルノブイリ原発事故と、福島原発事故ではっきり示されても、政府をはじめ世界の裏取引、趨勢は、自分の身に降りかかってこない限り、楽に金が稼げる、楽に電気が手に入る方法を選択する。すべては力の誇示と、経済発展の幻想のもとに。

(他者が苦しんでいることと私たちの生活は、きっとどこかでつながっていて無縁ではない。遅かれ早かれきっと私たちにもやってくる。そのことから受け止める覚悟を普段から養っておかないと、と初老の私は考える)

このままでいいのか、いけないのか、私の考えははっきりしている。ノーである。命があるのなら少々暗くても構わない。夜は休む。不便でも構わない。ぼろを着てても構わない。テレビ(一日に8時間放送すれば十分である)が見られなくても構わない。 構わないをずっと書き続けることができる。

私の家族仲間、友人知人、大切な存在のためだけではなく、全世界、人類が(という歴史文化)かけがえのない世界遺産が(ユネスコに指定されずとも人々は自分の中に、それぞれの世界遺産をみんな持っている)脅かされている、のにである。

中国の危険物の大爆発事故を見ても、ちょっとした管理ふいきとどきで大惨事になる現代の脅威。為政者が、人民をコントロールし、権力者の思いのままの一糸乱れぬ兵士の行進。私は気持ちが悪い。人にさえ迷惑をかけず、責任を取れれば思い思いに動いていいのだ。それを認めること。

あらためて歴史の皮肉、【先の敗戦でたった一つよかったことは平和憲法を手に入れたことだけ】、といわれた、尊敬する亡くなられた作家城山三郎さんの言葉が沁みる。

パレードのあの核爆弾の立った一発でもひょんなことで飛ばされたら、と思うとぞっとする本能的恐怖の感覚が私にはある、 想像力をなくしたくはない。その感覚にしがみついて、ささやかに五十鈴川だよりは流れてゆきたい。

穏やかに、猫の花と、犬のメルに話しかける妻の朝の声が聞こえる。毎日毎日を穏やかに暮らせる平和時間は、私たちの父母をはじめとする(異国の方たちも含めた)無名のおびただしい死者たちの上に築かれた、かけがえのない時間である。

そのことの有難さ、かけがえのなさを、曲がりなりにも少しずつ知る、学ぶことによって実感している。だから努々(ゆめゆめ)忘れないためにも、五十鈴川だよりを点検しながら、元気な間は融通無碍頑固に書き続けたいのだ。人を殺す愚は、己を殺すに等しい、と考える。




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