前回書いたことをの細かい中身まではほとんど記憶はしていないが、書いておくと自分がその瞬間,にじみ出た想いの発露が、時折恥ずかしいくらいに残っている。
やっと最近時折自分が書いた文章を読み直したりする。ほんとにたまにだが、これは自分が書いたのだろうかかと思えるような文章がある。
自分の中には、自分でもコントロールできない何か得体のしれないものが、未だ住んでいるような気がしてしまう。いい意味でも悪い意味でも。
オーバーに表現するなら、悪魔のような自分と、天使のような自分が往ったり来たり、人間とはそのような存在なのだと(あくまで自分のことです)ときおり、途方に未だくれる自分がいる。
自分とは、人間とは、かくも厄介な生き物であるという認識は、もの心つくころから今に至るもずっと私の中では変わらず、きっと老いて思考能力が無くなるまでの間、このことと覚悟を決めて向かい合うしかない、といった心境に最近はなりつつある。
話題を変える。あの暑い夏が嘘のように一気に涼しくなり栃木や茨木では、水害で大変な 事態になっている。
人災も、天災も、こうも多岐にわたって多くの事象が瞬時に映像で伝えられると、時折茫然、感性の糸が切れたかのように、画面のスイッチをオフにしたくなる。
自然の猛威の前では、(人間の悪魔のような所業の前でも)我々人間は裸同然の存在なのだということを 、特に東北の大震災以降私は個人的に痛感する。
だからそれ以降(以前からもそうでしたが)とくに生活をシンプルにして、できる限り何が起きてもリスクが少ないような生き方を心かけている(つもりである)。
随分と、それなりに当時は悩みもした末、40歳で災害の少ない岡山に家族で 移住を決断したことは、ちょっとした本能のアンテナ、無意識の発露に従ったまで、いまふりかえるち、よかったというしかない。
家族3人とにかく穏やかに生きられれば、それに勝るものはない、という気づきが赤ちゃんの娘を見ていて私の中に湧き起ったのだ。それくらいの単細胞の私の決断でしたが、(身を捨ててこそといいますが)人生何度か思い切った決断を迫られることが、するしかない時が、おそらくはどのような方にも訪れるのではないかという気がする。
そこで踏ん張れるかどうかで(別に踏ん張らなくてもいい)道は分かれてゆく。私の場合はそう思える。あの時のちょっとした勇気が自分に中に育っていたことが間一髪良かったと、。
過去に学んだことを体の中に持って、新天地で生きる。おそらく原発事故やあらゆる理由で 、生活を変えざるを得ない方々が、現在の日本のみならずおそらく全世界には途方もなく存在する。生活困窮者、いわゆる俗に難民と呼ばれる方々が存在する。
性別や、生れ落ちた時代や環境は変えようもなく、災害等の不測の事態も、いわば運命として甘受す
るしかない、現実。
変えようもない運命を 人は生きるしかない。つくづく非常、不条理というしかない世界を、ますますもって我々は生きざるを得ないのかと、時に私はブログを書く気がおきないくらい、暗澹とした気分になる。
ところで私の両親は北朝鮮からの引揚者である。兄と姉は平壌の近くの新義州うまれ、親子4人それこそ命からがら引き上げてきたのだ。引き上げ後、無一物からの再出発。
もし、不測の事態が起きて、帰国がかなわなかったら私はこの世に存在していない。私が世界の難民の、特に子供が置かれている苛酷な報道にいくばくかの過剰な反応が自分の中に起こるのは、父の引揚体験を、遺してくれたわずかな文章を繰り返し読んでいるからかもしれない。
ともあれ、まかり間違うと大災害時代に遭遇しかねない、危険なリスクの時代が到来している。だからといって、いたずらに不安を抱え込む必要もないと、私自身は考える。なるようにしかならない中をあきらめず、生きるしかない。
繰り返すが、シンプルにつつましく生きることの中に 、限りなく喜びを見出せる方法を(できる限りお金に頼らず)私は体と相談しながら、模索しながら歩みたく思う。
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