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2015-07-25

夏休みの旅が近づく前に思う、朝ブログ。

60歳の誕生日は、遠野のボランティアセンター出迎えたことは、五十鈴川だよりで書いているが、あれから3年半が過ぎた。あの時の体験は、私の中の何かを壊した。(かけがえのない命について深く考えるようになった)

わずか2日間ではあったが大槌町で、瓦礫の撤去作業をした際の記憶は鮮明である。あそこは今どうなっているのか、いつか再び訪ねたいと思い続けていたが、漸くそれが今回の旅でかなう。

あの時ともに撤去作業をした、山形の方で、当時は盛岡で働いていたKさんとは音信が続いていて、その方と花巻で待ち合わせ、一日我々が作業をした現場を訪ねる約束になっている。

貧乏旅だが6日間の時間があるので、可能な限り在来線やバスを使い、新幹線はいざというときにだけという旅である。

名所旧跡はほとんどゆく予定はない。いずれもっと歳を重ね妻が仕事を辞めたらともに行けるまでの楽しみとしたい。

今はまだまだ、私にそのような余裕はないし、そのような旅をしたいとも思わない。大槌町を訪ね、K氏と旧交を温めるのが大きな目的。あとは在来線からゆったりと日本列島の景観を眺めながらの、読書と昼寝旅が、私の望む夏休みの旅である。

せっかちな私であるが、せわしない旅は苦手である。時は金なり、私にとってはなんともはや贅沢な旅なのである。

若き日シベリア鉄道に一週間揺られ世界の広さを体感した経験も大きい。長時間の汽車の旅が私は大好きである。早いということがすべてに優先する 世の流れではあるが、ちょっと待ってほしい。

時間とは何か?などとことさらに難しく考える必要もないが、ゆったりとした時間を持つ旅を、年に数回はできるような人生を送りたいものだと、私個人は考える。

身体はアナログである。デジタルの波に飲み込まれそうな世の趨勢には、私は取り残されても構わない。頑固という意味ではなく、自分にとって気持ちのいい居場所で呼吸できることをこそ、私は望む。

幸い体がゆっくりとしか動かなくなってきているので、ただただ私もゆっくりと亀のように生き、旅もまたかくありたいのだ。貧しさを豊かに生きる知恵が先人たちの生き方には詰まっているのを、有難く私は知る。

ノートと本をもっての、見知らぬ土地で、今体感できる夏のこの世を愛でる 気まま旅。時折日常生活を脱線し、今を生きる自由を満喫したいと思う。

そして旅の帰りは先日参加した、国会議事堂前に再び立ち寄り、ひと声放ち、参加されている方々と連帯したいと考えている。あの時冷えた体にしみた大井町の餃子屋さんにもゆけたら行きたい私だ。

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