いよいよ来週から安全保障法案の参議院での審議が始まる。まだまだ廃案になる可能性はあるのだから、庶民の一人としての声をつたなきブログではあれ、述べずにはいられない。
自戒を込めて、ただ単に熱に浮かれて反対するのではなく、自分自身中身についてきちんと学びながら、いろいろな方の意見に耳を傾けながら、自分なりの考えを整理する力をつけないといけないと、自省する。
東芝問題も、新国立競技場問題も、いじめの学校問題も、あちらこちららで噴き出すあまりのというしかないくらいに、なんとまあ、無責任 、他人任せに我々は暮らしていることか?と、批判をのべることはたやすい。
がそれは自分の内にも潜んでいるのではないのかという、自分を問う懐疑的感覚を持っている人が、どれだけいるだろうか。他者を鏡として自己点検する。
私も含めて、今まで安易に時代に流され、考える力を蓄えてこなかった付けが、今わの際の、戦後70年の節目に噴き出てきているのではないかという認識を私は持っている。
デモに行くことであれ、自分の考えを 述べる、意思表示をするということは、大人としての責任を持つということである。覚悟が問われるということである。
訳知り顔に評論家的になる愚は避けたい。そんな暇があれば、虚心に学ぶ、知ることが今ほど大切な時代はないのではと、反省しきりの私である。
ところで、昨日のM新聞の月間持論フォーラムで、水野和夫さんが、【植民地主義と英語】という論で、説得力のある考えを示し述べておられる。(いい意味で母語、日本語の文化を大切にしないで、異国の文化をリスペクトできるはずもない)
詳しくは読んでいただくしかないが、ギリシャ悲劇、トロイアの女から話が始まり、今のこの日本の置かれている危機的状況がきちんと解りやすく説明されていて、説得力があった。
氏は、【現実の狂気の世界】を正気に戻す力が芸術にはある、と結んでいる。読みながら何度もうなずいた、ほとんど私も同感だからである。
一見無駄とも思えるような遊び心のなさ、この数十年の経済効率優先の政策や点取り虫、効率優先教育の弊害が今噴き出してきているのは明らかではないか、というのが私の考えだ。
その解決策が見えないとところに、あまねく多分野に閉塞感が充満しているのではないか?という気がしてならない。元気な方は、自分自身で風穴を開け、閉塞感を打ち破るる勇気を持ちたいものである。
おたおたしてはならない。考える葦、知恵の泉であるわが頭と肉体で考え続けるなかで、必ずや、出口を見つけるべく、大人なら地に足をつけて右往左往、矛盾しつつも思考を続けるべきだとの側に私は立つ(ちたい)。
ところで、水野和夫氏のような、経済にも文化にも造詣が深く、ユーモアセンス、知的教養あふるる政治家が増えないとこの国の行く末はあまりに寂しい。
反知性主義という言葉を最近目にするが、哲学的見地、目に見えない大事な知的探究を軽んずる大学の改革などは、なにおかいわんや、である。
グローバル金儲け主義は、奇蹟の星、未来地球を食いつぶす恐ろしさに満ちている気がしてならない。(最終的にぐちゃぐちゃ戦争という形で、だから私は安全保障法案には反対である)
安倍総理の答弁をテレビで聞いていると、本(偏った読書で)を読む時間もないのではと思えてならない。一国のリーダーを任せるには、あまりの紋切型、日本語貧困言葉の繰り返し、責任の重さが私には感じられない。
与野党問わず政治家を選ぶのは我々国民である。選ぶ側の責任もとても重いのではないか、と私は考える。
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