竹韻庵、という名前の山荘が岡山市街の一角にある。S氏という、私が岡山にやってきてからお世話になっているかたが持ち主。自宅から歩いてゆける距離にあり、都市部に近いのに別次元に浸れる素敵な場所である。
実はS氏とはちょっとした祖語で、しばらく音信が途絶えていたのだが、氏が私のブログを読み続けていてくださっていたおかげだろうか、氏の方から連絡があり、旧交が最近復活した。
話を手短に済ませる、農を断念したとはいえ、私はまだまだ元気なので、秋口、少し涼しくなってから、週に数日身体を動かせる私にもやれそうなアルバイトを探すつもりではいた。
氏と、先日久方ぶりに会ってお茶を飲んでいたら、氏の口から思いもかけず竹韻庵の管理等をやってもらえないかと依頼があったのだ。
半日しかできなくても構わないとのことであり、何よりも私の都合のつく範囲でやれるという好条件。私は即引き受けることにした 。
というわけで、この2日竹韻庵に通っている。今日は雨でお休み(週に3日程度自分のリズムでゆかせていただきます)余裕をもってブログを書ける。来週からは大槌町を目指す旅が待っているので私としては珍しく、計画をきちんと立てなければならない。
晩年を、充実してゆけるための全き 良き環境が、望むべくもないいい感じで整いつつある現実に、私はそっと何かに感謝する。
さて、竹韻庵で2日ほど体を動かしてみたのだが、当たり前汗が体から噴き出してきた。一本の竹を切りある程度の長さに切り、運び、枝を払うだけでも夏の作業は 体にこたえる。
だが、こんなこと昨日今日始めたわけではない。美星町やサンナンの畑で何十年もやってきたおかげで加減が体で分かっているから今もやれるのである。半日なら十分耐えられる。
無理はもちろんいけないのだが、新陳代謝を繰り返せる風通しのいい体を1日でも持続することが、老いの中の楽しみともともなっているわが暮らしなのだ。
繰り返し五十鈴川だよりで書いているが、楽あれば苦ありである、 苦あれば楽あり、苦と楽を分けて考えないことが肝要、同じように死と生も同時に日々進行しているのだから。
あまり身体を甘やかしたら,良いことにはならないというのが現時点での私の考え、苦の中にこそ生の喜びが潜んでいる気がする。動ける身体をいつくしみながら、そして何かにすがりながら、見果てぬ老春を希求する。
S氏が無理なく、休み休みやってくださいとおっしゃってくださるし、何よりも気兼ねなくやれるのが楽しい。たった2日程度では、何事もなかったかのような竹韻庵ではあるが、根気よく雑木や竹を切り、片付けながら敷地を手入れしてゆくほかはない。
昨日は、朝ゆくのを少し迷ったのだが午前中ほとんど雨が降らず思いのほか作業ができた。やめるころからにわかに雨が降ってきた、無人のテラスで汗をかいた体をふき、着かえるとなんとも体が軽く爽快感がたまらない。
戻って遅めの昼食を自分で作って食べ、しばし恒例のお昼寝一時間。起きてシャワーを浴び、新聞を読み 、間違いの喜劇を声に出し、5時半すぎ遊声塾のレッスンに出かける。
私も含め昨夜は5人での充実した7月最後の愉しいレッスンを済ませ、10時帰宅。11時すぎ床に就いたら、心地よい疲れに満ちたわが体は、あっという間に夢間の世界へ。
「竹韻庵」 2年くらい前に 写真がアップされてましたね。蚊対策 万全に。
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