ページ

2015-05-31

私の人生を変えたといってもいい、ピーターブルック演出作品・夏の夜の夢。

まず岡さんのコメントに対して。ありがとう、探して必ず見ますね。

優れた監督や演出家は、わたしが初めてロンドンで見た【じゃじゃ馬ならし】(マイケルボグダノフ演出)も劇中劇にしてシェイクスピアを現代に蘇らせる。

いまでも、最初のシーンの斬新さが印象に残っています。それはお芝居から 、演劇へ。劇的ともいえるほどに現代世界を映し出し、えっ、シェイクスピアってこんなふうに現代人に迫ってくるように抽出(演出)できるのかと、若かった私は驚きました。

それが、創造であり、想像力のなせる業なのだと思う。それを実現できる俳優たちとの共同作業をゆったりと許す文化に対する厚い土壌を若い私は垣間見ました。

ところで私の家には尊敬する演劇人ピーターブルックの演出作品のポスターが何枚か飾ってあります。私の宝です。

二十歳のころ、私はブルックの【夏の夜の夢】を見ましたが、今に至るもその斬新というしかない演出は、若かった私を日本を一度離れロンドンに自費留学するという夢、欲望に火をつけました。

優れた舞台人である野田秀樹さんも、高校生の頃、この舞台をみて衝撃を受けたとなにかに書いていました 。

それくらい、劇的な舞台でした 。シェイクスピア自身ハムレットの中で、芝居とは時代を映す鏡といっている。現代人の虚ろな当時の私の生活に風穴を開けてくれた、まさに私にとっては夢のような舞台作品として記憶の底に焼き付いている。

今考えると、お金のなかった私がよくもまあ、あの舞台のチケットが買えたものだと思うが、それくらい何か未知との遭遇を求めていた。

私だけではなく、あの当時の若者たちは、あらゆることに好奇心があふれていた。地球の歩き方 もなく、世界をただ単純に見たい、この自分自身の眼で、ということに飢えていた。私もその一人だったのだである。

振り返ると、つくずく私の場合運が良かったというしかない。単純にアクションを起こすことの大切さ、いまも私の中では生きている。

可能ならできるだけ正直に(そうはいかないことが大半ではあれ) 一回こっきりの人生を生きた方が、と私の場合は思うのだが、各々それは自由である。

労苦は伴うが、すべては若かったからこそできた。あのようなことは20代だからこそ、気の弱い私でもジャンプできた。そしてその選択はよかったのだとつくづくいま思える。

ライブ、舞台芸術はまるで夢のように一晩で終わるからこそ、私には素敵に思える。夢というか幻想は、そして未だ私の中に宝のように残り、こうやって拙文を書かせる。

何度も書いているが、やはり鉄は熱いうちににこそ、と思う。ピーターブルックは九〇歳近くになるが、いまでも現役で優れた仕事をしている。
シェイクスピアのテンペスト(音楽桃山晴衣)銀座セゾン劇場で。

限りなく、ただ ただ人間の存在とは何かを、演劇で探究すしているまれな人。

この方の演出作品を私はシェイクスピア以外にも、これまで10本見ている。(長くなるので書きませんが、記憶の宝というしかない)

ブルックは時間を惜しみなく費やし、納得のゆく舞台を創造するがために、作品本数はそんなに多くありません、そんなブルックの珠玉の 演出作品を10本も見ることができた私は幸運というしかありません。

映画も3本見ています。雨の忍び逢い・マラサド・三文オペラ。

ピーター・ブルックは、ひたすらシンプルに生きることの大切さを私に教えてくれた、私にとっての宝というしかない演劇人である。

岡さんのコメントから、思わぬ朝ブログになった。絶対矛盾を抱えながらも、限りなくシンプルに生きてゆきたいと、還暦後ますますそう思えるようになってきた。







2015-05-27

松岡和子訳で間違いの喜劇を読む。

30数年ぶりに、かなり本格的に無謀承知で塾を立ち上げ、まるで時が逆周りするかのように再びシェイクスピアを声に出して読み始めて、早くも3年目に突入した。

私事きの塾にも、塾生が増えるにしたがってまるで年齢に逆らうかのようにというのか、若いころとはもちろん違う形で、シェイクスピアを読みたくなってきている自分がいる。

短い時間では推敲して文章が紡げないのだが、ブログ時間の中ではあるけれど吐露しておきたいのだ。

現在の自分のありのままの姿を、可能な限り生き生きと生きるために、私の父には囲碁があったが、私には古典としてのシェイクスピアを読むという 宝があると気づいたがためである。

私が日本語でシェイクスピアを読める一番ありがたいと思うことは、それぞれ日本語の言葉の達人たちが明治時代から、現在に至るも翻訳を続けていて、それが読めるということである。

時代が変わり、生活が変わるとかくも言葉は変わるのだということが実によくわかる。

まさに翻訳家は命がけでシェイクスピアの世界を日本語に移し替えているのだということが解り粛然とする。

目まぐるしく情報飛び交う時代ではあるが、普遍的な人間生活の大事は 余すところなくシェイクスピアがすでに書いていると、私には思える。

これからはいよいよもってシェイクスピアを声が出る間は、何度もは読んでいないほかの作品を声を出しながら読み続けてゆきたい。

(大きな声が出せなくなっても、一人てもぼそぼそとであれ 声が出せる間は出し続けたく思うのだ)

それともう一つ、なかなかかなわないのだが優れたシェイクスピア作品の舞台作品を見たいと急に最近思うようになってきた。なぜなのかは自分でもよくはわからないのだが。

それと、同じ作品を異なる翻訳家で 読むということを楽しめるのも、実に面白い。初めていま小田島訳ではなく、松岡和子さん役の【間違いの喜劇】読んでいるのだが、訳のタッチがことなっているし勉強になるし新鮮に読める。

とまれ、今夜は塾の日である。可能な限り新鮮に日本語の 言葉を大切に発したいと思う。

2015-05-25

池澤夏樹氏の書評、武田蹉跌著【紋切型社会】を読んで思う。

まず一番最初に、岡さんコメントありがとう。私の晩年生活は、未だささやかな冒険生活をやめないというか、そういう性を生きられる今の暮らしをことのほかに楽しんでいる。

今の暮らしは、現時点でこれまで生きてきた生活の上にこそ、成り立っているという自覚が私にはある。だからなのだ、恥ずかしげもなく人様の前で、つましい幸福感があるなどと書けるのは。

さて、話はいきなり変わる。M新聞の書評を私が好きなのは、書評をされる方たちに、私の好きな方たちが多いということがまずある。

その中の一人が池澤夏樹氏である。勝手に私の先生の一人にしている方である。私は18歳から世の中に出て、生きるのに忙しいのと、本質的に遊ぶことが好きで学ぶことが苦手であったがために,今に至るも無知蒙昧である。

そのような私ではあるが、いささか遅きに失した感はあるにもせよ、歳を重ねるにしたがって、遊ぶこともさることながら、遊ぶように学ぶことが次第に楽しくなってきつつある。(無知というコンプレックスを今は楽しんでいる)

もっと書くなら、遊ぶことと学ぶことは私の中ではほとんど同じことに、境界がなくなりつつあるのだ。

私が大学に行かなかった理由は、学校での成績が悪かったことも起因しているが、大学というところは、学問を大きく学ぶ太い志を持った人がゆくところであると、田舎者の私は思っていたし、親に負担を強いてまで演劇を勉強したいとは口に出せなかったのだ。

話がそれた、その池澤氏が昨日の書評で取り上げた本は、武田砂鉄(蹉跌)著【紋切型社会】 である。(読みたくなった)

閉塞感極まる今の日本社会の風通しの悪さは、きっと私も含めた日本語言葉の表現の痩せ細りに如実に表れてきている来ているのではないかという認識が私にはある。

自己思考放棄、無意識マニュアル言語で事足りる、済ませてしまえる怖ろしさ。血の通わない言葉の垂れ流し。

言葉遣いの中にその人の人間性のすべてが現れる。自分のすべてといってもいい何かが。

だからブログを書くという行為は自分をある程度さらす覚悟がなかったら、まともな人間ならとてもではないが できない、とさえ思う。

あらゆる表現行為はどこか心の中にやましげな思いを抱えつつも、やむにやまれぬ思いに裏打ちされいるのだとおもう。その思いを表現する手段としての言葉の衰退は、人間そのものの衰退を如実に顕しているというほかはない。

人間は言葉を操り、母語(国語ではない)でもって思考する生き物である。その母語での生活が紋切型でほとんど足りるのであれば、何をかいわんや。何という寂しき内面世界。

私がシェイクスピアにすがり(あまりにも豊かな言語世界)声に出して読む塾を立ち上げたのも、あの翻訳だからこそ味わえる日本語の豊かな世界を 堪能することで、心身ともに健康に生きていたいと思うからである。

朝から予想外のブログになってしまったが、想像力に火が付くような言語、母語での自分なりの思考生活を大切にしないと、やたら理解不可能な言語を操る政治家や官僚たちが作成した文言に操られてしまうという、恐ろしいことになってゆくのではないかと、私ごときも危惧する。

五十鈴川は、ささやかに血が未だ流れておりますから、時を追いかけます。 真の言葉、池澤夏樹氏の文章は私に火をつける。



2015-05-23

平凡を非凡感じて楽しむ。

昨日、初めて干した雑草や小枝を畑の隅で燃やした。今私が借りている畑地は開墾から関わった初めての土地なのでひときわ愛着がある。畑の手入れが楽しい。

もう一月、このまま順調にチシャトウが病気にもならず生育してくれれば、人生で初めて出荷できるところまでこぎつけてきた、うれしい。

農の仕事を始めてもうすぐ1年と8か月、ほとんどまだ何も知らないといってもいい。これから先あとどれくらいやれるのかも皆目わからない、ただうれしい。

とにかく土に向かい合い、母をはじめいろんな方に教えていただきながら、失敗を恐れず、植えられる作物を植えてみよう、それしかないとの思いだ。
母が種から育てたカボチャの苗

良心に恥じない安全な作物を作れれば私はいい。

それを行商できれば、こんな楽しいことはない、そのような能天気なことを考えられるのも、ひとしきりのことを終えた、晩年時間を生きているが故だ。

自分で書くのもおこがましいが、特に娘の結婚報告会を終えてからというもの、何やら何をしていても楽しく、つましい幸福感につつまれている。

すべては、母をはじめ家族全員が健康なればこそなのだ。ブログを書き始めたころ、妻は人生で初めて大きな手術をしている。

母も今は完治しているから書けるが、5年くらい前に背中を骨折して3か月くらい入院していた。

母は見事に復活(すごい母だと思う)今再び自転車に乗って我が家にやってきているし、数年前には川で泳いで私を驚かせた。五十鈴川だよりは、身内のあれやこれやにはほとんど触れていないが、我が家にもいろんな出来事がある。

でも今現在は、全員が健康である。一寸先はわからないのが人生だからこそ、今日一日を感謝して生きる、そのような境地に漸くにして私もなってきた。

私ごときがいうのもなんだが、人生はまさに厳粛な綱渡り、自分の器の分をわきまえ、きちんとやれることをやってゆく中でしか、身の丈に合う充実感は見つけえない、とまあそのような気がする。

さて、今日もブログを書き上げたら、畑に行き昨日の続きをするつもりでいる。居場所があり、やりたいことができること、少々しんどくても、そのことが楽しめることこそが肝要だ。

夕方は一転して、運動公園で【間違いの喜劇】を声に出す。やく40分くらい、いま20行くらいの長いセリフを暗誦する ことをやっている。畑の草を抜くように根気がいるが、脳内が活性化するのがわかる。

つくずくシェイクスピアは私を鍛えてくれる。 今日できたことを、体と相談しながら無理なく可能な範囲で明日も続ける、それしかない。




2015-05-22

五十鈴川だよりを、書く時間が無くなってた今朝。

まとめて藤原新也さんのキャットウォークを読んでいたら、夜が白んできて五十鈴川だよりを書く時間が無くなってきた。

人間は一度に二つのことはできない。畑が私を呼ぶ、涼しいうちに草を抜かないと太陽の紫外線に体が言うことをきかなくなる。

ブログはまたかけるが、畑の草は、今の季節手をこまねいているとぐんぐん伸びる。のらりくらり流れる五十鈴川だより、気が向いたときにしか更新しませんから、ご容赦あれ。

今日の写真は先日お亡くなりになった、詩人、長田弘さんの新聞記事の切り抜きです。(一面トップに掲載されていました、5月14日)

2015-05-19

蔓バラが満開になり始めた朝に思う。

雨が上がり夜が明けてきた。普段なら即畑に直行するところだが、雨上がりなので畑がぬかるんでいるのでゆっくりと出かけようかと今考えている。

午前4時には起きた。2階の書斎でささやかに一仕事澄ませて、パソコンのある一階の部屋に降りてきてのブログタイム。

もうおそらく、何十回と書いているが、このなんとも言えない静寂な朝のひと時を私は好む。体に邪心がなく、睡眠が満ち足りて、まだ起ききっていないからだの胡乱な状態が私は好きなのである。

窓からの視界の先に 、妻の愛する庭の草花が、水分をたっぷりと含んで精気を放ち、わたしの目をやさしく愛でる。
今年も蔓バラが満開になりました。


家を建ててから丸15年が経つが、住む人たちの考えが丸ごと家の内外の雰囲気を醸し出す。

それは恐ろしいまでに、私たちの暮らしを反映する。

丹念に手入れされた庭は、素人作業にせよ、 やはりそれなりの姿でもって顕現する。

自然は厳しい。ちょっと手を抜くと、無残な姿に庭は変身する。

それは畑も同じこと、そして思う。自然の一部、人間であるわが体も同じことではないかと。

歳を重ねるということは、やがて体が思うようには動かなくなってくる、ということだ。

動かなくなるということは、自分の手入れができなくなり、自分自身も無残な姿をさらすということになることだ、と。

だからこそ、動けるいま現在のわが体の手入れを、気づいた時から可能な限り やっておいた方がいいと、私も50歳を過ぎるころから、無理し続けてきたわが体をいたわるようになってきたようには思う。

だが、無残な姿をさらすこともまたよし、という考えに私はくみする。枯れた葉は落ちるのが節理なのだから。

手入れしながら老いてゆき、やがては自然の摂理の中に還ってゆく、そのことを満願成就しつつ受け入れることができたなら、もう何をかいわんや、である。

だからこそその一点に向かって一日一日をと、五十鈴川は煩悩を抱え流れるのである。

最近ことのほか畑に行くのが楽しい。昨年11月に植えた玉ねぎが順調に育っているし、植えたいろんな野菜たちを眺めるのがなんとも言えない。

オーバーだが、手ごわい雑草との戦い も含めて、畑は命とのやり取りをする循環の場所なのだということを知らされる。私が倒れ誰も手入れできなくなっても、それはそれでいいのだ。

またもや、大いなるなにかのもとに、還ってゆくだけなのだから。だが人間である煩悩を抱えた私は、今しばらく畑時間を楽しませてくださいと、大いなる何かに祈るのだ。

何やら朝から思わぬことを書いてしまった、野暮だからこれ以上書くことは控える。

2015-05-18

香川からI氏が遊声塾に参加します。

一昨日の土曜日、香川に住むI氏が西大寺の我が家まで来てくださった。氏との出会いは1996年だから、おおよそ20年のお付き合いということになる。

氏はアサヒビールにお勤めである。私が地方版のスーパードライの新聞CMに起用 されたことが、出会いのきっかけ。

私が手に余る企画をした際、一番最初に協賛の努力を上司に掛け合ってくださった方である。いろんな意味で、氏との出会いの大きさは今も痛感している。

その当時の私にとっては、野外での大きな企画は協賛スポンサーなくしては成立しなかったからだ。これは、お金を集めることに奔走したものならば、皆覚ることだと思うが、企画を実現するためには、まず応援協賛金を集めることから始まる。

私の企画のほとんどは、友人知人の協賛金によるが、唯一の例外がアサヒビールなのである。氏は謙遜するが、私にとっては恩人の一人である。

このことは、ブログではなくいつの日にか、氏との出会いをつづれたらと思っている。さて、私が企画をしなくなってからも、緩やかに氏とのお付き合いは続いているが、氏の方からのお誘いは初めてのことであるから、私もうれしかった。

それもわざわざ、西大寺まで来てくださったのである。氏は現在48歳だから、出会ったときは28歳ということになる。息子の 怜君くらいの年齢だったわけだ。

我々は西大寺の家の近くで落合、家に立ち寄る前に、そく畑にむかった。氏が是非畑を見たいといってくれたのだ。

畑仕事を初めてまだ2年にも満たず赤ちゃんのような私だが、 ともあれ私の開墾した畑を見てほしかったのである。

この季節、雑草との戦いが続いていることはたびたびブログで書いているが、驚いたことに氏が雑草を抜きを、短時間ではあるにもせよしてくださったことに、私は感動した。
初めて私以外の人が雑草を抜いてくれました

オーバーだが、氏もそれなりの20年間を生きて、我々は再び所を変えて畑で再会した、との感慨に私はとらわれた 。

畑から我が家に移動、ささやかにアサヒビールで乾杯し電車で岡山へ。車すしでゆっくりととしたひと時を過ごした。二人きりでこんなにも長く語り合ったのは初めてのことである。

あらためて、氏のじんわりとした人柄、寡黙なやさしさが私にも伝わってきて、私も時折ジーンときた。

そして、かなりいい気持で酔いが回ったころ、氏の口から出た言葉が私を驚かせた。毎週は無理なんですが、月に一度でもいいから遊声塾に参加したいと、氏は言ったのだ。

意外(といっては失礼だが)な申し出に私は、静かに素直にうれしかった。県外塾生の初めての参加、氏は先月の遊声塾の発表会に来てくださった。

そのことがなかったら、きっと参加はなかったに違いない。何かが氏の中でうごめいたのだとしか思えない。(まるでシェイクスピアのセリフのよう)

ともあれ、氏は覚悟して決めたのだ。これで遊声塾はもっと個性あふるるにぎやかな塾になる。生きていることは、未知との出会い、自分との出会い。

氏は27日が初めての参加になるが、キンドルで 間違いの喜劇を読み始めているにちがいない。

短い人生の中での豊かな心からのつながりが成熟するには、きっと20年の歳月が我々には必要だったのだと帰りの電車のなかで私は思った。



2015-05-15

畑で雑草を抜きながら、ゆらんゆらんと考える。

若い頃いやというほどTVを見たせいか、これからの人生時間を考えると、有限なる時間をほかのことに使って生きたいといういう思いは、50歳を過ぎるころからにわかに強くなってきた。

やったことがなく、自信はないがあこがれていたようなことを、悔いなくチャレンジしたいと思うようになってから十数年経つ。

どんなことも、最低3年はやってみようと。その中の一つ韓国語の勉強も、仕事をしながら、我ながらよく続いたことの一つに数えられる。

夢が原退職を機に、塾を立ち上げたり、農の仕事を始めたりで、時間的にあれもこれもはできなくなったが、思いついたが吉日で、それなりに自分なりにやれるだけはやったというもいがある。

現在は、シェイクスピア を声に出すことと、農の仕事と、ささやかに学び続けることで、一日がことのほかに早く過ぎてゆくなかでの充実感を味わいながら生きている。

その充実感を持続するためには、きちんと睡眠をとらないといけない。だから体と相談しながら、どんなに見たい番組があっても、以前は無理して見ていたのだが、今は見なくなった。

身体が気持ちよくないと、どんなに愉しいことも私はやはり気持ちがよくない。体調がよくないと声も気持ちよくは出せないし、畑での労働も当たり前だが楽しくはなくなる。

すべてはよく動ける身体あっての物種だと、あらためて思い知る。だからなのだ、食生活をはじめあらゆることに気を使い、無理はしなくなりつつある自分が、漸くいる。

本を読むことも、ブログを書くことも、あらゆることの根本的な根気は、健康にやる気を持続できる身体あっての、物種だと思い知ったのである。(還暦後はことさらわがままに)

だからなのだと思う、あらゆる自分にとっての誘惑を、ことさらに制限するようになってきたのは。 今現在、心からやりたい、やれることにエネルギーを傾ける生活を心がけたいと思うのだ。

言うは易しだが、何とかぎりぎりのところを楽しめている自分を感じつつ生活している。

その波動は家族も感じるらしいから、いましばらくはこのままの流れでゆこうと考えている。

さて、長女の結婚報告会がおわり早10日。何やらゆるんだ感覚が私を襲う中、早朝と夕方は畑時間を楽しんでいる。(無理せず実働5~6時間くらい、ほかのことに4~5時間がちょうどいい)

母が種から育てたカボチャを植え(17本)、ほかに頂いたトウモロコシの苗(9本)と枝豆の苗(12本)、それにトマト(2本)、赤と黄色のピーマン(各1本)を雑草取りの合間に畑の端に植えた。

土と戯れる晩年時間はことのほか楽しいというほかはない。自主的な草取りは実に楽しいものだ。誰かに強制されるのではなく、自分の内側から湧き上がってくるやりたいことは格別だ。

一仕事おえ、帰って簡単な我流料理の昼食も楽しい。麺類が多いのだが、ふんだんに我が家の野菜(大根の葉、インゲン、サラダ菜、小松菜)やいただいたた新玉ねぎを使う、簡単この上ない昼食。まったく金がかからない。

なにせ、身体をひとしきり使ったあとの昼食だから、とにかくおいしい。外食なんかまったくする気にならない。

私は思考する、あらためて生きていることの幸せ、人はなぜ生きて、一体全体どこへ向かうのかと。

弱肉強食の歴史を思うとき、弱者は強者の論理に操られやすい。(もう戦争による弾薬武器なんかの経済論理に操られている時代はとうに終わった、敵を想定する論理。我々はすべてがつながっている。そのことを畑は私に教える。あらゆるパラダイムを変えないと地球が滅ぶ瀬戸際を、人類は生きている)

弱者は思考と行動で、何かをなさねば。考えることを放棄し、金のために耕作地を放棄しているうちに、身体を動かさなくなり、あらゆることが戦前のように決められて、取り返しのつかない愚を、同じ道を歩まされるのだろう。

そのためには、どうしたらいいのかも、元気な間は大人として、畑で雑草を抜きながら考え続けたい。

2015-05-13

手で雑草を抜き、良き本を読んで学び考える日々。

ゆっくりゆっくり雑草を手で引き抜いてゆくように、本を読み進める。以前も書いたが(私は本にもよるが)私は本を読むのが早くはない。

いささか矛盾するが、しゃべるのとは真逆である。そういうわけだから限られたまったく自由なひと時 、赤坂真理さんの本はじっくりと読み進めている。

私は考える。一人の人間が心血を注いで数年かけて書いた作品をあだやおろそかに簡単には読めない、と。

何事にもすべてはタイミングというものがあって、何十冊も読み続ける中で、自分にとっての大切な一冊というべき本に、20代、30代、40代、50代と幸せなことに私は出会い続けている。

だからなのだと思う。少年期、あれほど本を読まなかった私が晩年に向かうにしたがって本を読むようになったのは。

今、読むべき本がなかったら と考えるとぞっとする。それは自分がいないともいえるくらいに本を読むことは生きることと結びついている。

言論の自由(言葉)あればこそ、多様極まる多相(層)な森羅万象世界の豊かさをの一部を垣間見ることができる、言葉は想像力に火をつけ、感動を生む。

手軽に、限りなく内面の生成感覚が日常生活の中でも起こる。格安で、実に内面が活性化される。そのことを経験的に私は知っている。だから私には書物が手放せない。

精神の食べ物。噛めない書物にも出会うが、出会う年齢でのタイミング。高い山に挑むようにゆっくりと読み進む。だんだんかめるようになってくるから面白い。食べ物の嗜好だって変る。

変わらないのがおかしいのだと思う。自分のあずかり知らぬところで、なにがしかの読書体験により老いる中で、体が変化しているのだとしか思えない。

だから変化し続ける可能性のためにも、心と体が欲する本は、正直に読み続けねば、まさに私はもったいないと 考える。

何度も書いているが、日々の生活の中で知らないことを、謙虚に知覚してゆくということこそが、わたくしごときでも面白いのだ。

だからこそ、18歳から絶望せず今も生きていられるのだと思う。特にマイノリティ的な生き方を選択してきたこれまでの自分の人生の大部分を振り返るとき、 くりかえすが本がなかったと思うとぞっとするのだ。

話は変わるが、保坂正康さんという昭和史の専門家がおられる。その方が毎月一回、M新聞に昭和史のかたち、という連載をやっておられる。

この方のような方がおられるので、私は私なりにいろんな知らないことを虚心に学ぶことができる。

たまたま、昨日午後雨だったので、書評他新聞をまとめて4日分ゆっくりと読んでいたら、5月9日のこの方の文章が目に留まり、切り抜いたのだが、明治人の【荒尾精】というまっとうな軍人がおられたことを初めて知った。

あらためて信頼に足る方からの情報を自分で見つけてゆくことの、大切さを知らされた。

真の意味での大切なことは、そうは簡単には見つからない 。畑の雑草を手で根気よく抜いてゆくように日々を送らねばと、良き本は私に教える。


2015-05-11

赤坂真理著、【東京プリズン】読み始める。

岡さんと、S氏からそれぞれのブログに暖かいコメントをいただいている。この場を借りてありがとうございますとお伝えします。

わたくしごときが書いたものでも、 なにがしかの反応があるとうれしい。都合のいいことばかりではなくとも、それもなんていうのか、反応のひとつと考えれば、生きていればこその醍醐味といえるかもしれないし、自分を再点検できるくらいには、考えられるようになってきたと思う。

ともあれ、めったにコメントは来ないのでややもすると、数日ブログを書いていないと気づくのが遅くなったりもしています。

ブログを書かない日は、パソコンを開かない日もあるので、御容赦ください。岡さんからは一番ビビッドに反応があるので、やはりうれしいですね。

赤坂真理著【愛と暴力の戦後とその後】について、書いた日の反応も早かった。いつの日にか、一日に一件位の反応、反射、リスポンスがあれば愉しきかな、 と思う私です。

でも多くは望みません。今くらいが五十鈴川の流れとして、ふさわしいのだと思うことにしていますし、何よりもほとんどは自己満足、日々の自己確認ブログなのですから。

ところで、畑が忙しい季節になり、シェイクスピアのあまり読まなかった作品も30数年ぶり、再び読む読むようになり、有難くもにわかに忙しき日々を送っている、

そのような中、数年前書評で切り抜いていた小説、赤坂真理著、東京プリズンを読み始めました。文庫で527ページあります。今200ページくらいまで読み進めています(独自の発想に驚かされます、いよいよ面白くなってゆきます)。

私はあまり小説を読むことを しない暮らしを続けていたのですが、あまりにも、愛と暴力の戦後とその後、(これは小説ではない)が私にとって面白かったので。丸善に直行したのです。

私は本を読むことは好きですが、あまりの本の多さには気圧されるところもあり、その絶対矛盾を生きています。(でも読み続けているからこういう本に出合えるのです)

赤坂真理さんは異性であり、世代も、いろんな点で異なるのですが、一言でいえばささやかに共通感覚が一部重なるかのような(もちろん一方的にです)問題意識の持ち主だと言えます。

このことは、戦後生まれの私としては、これから元気な間、生活者として、一人の人間として個人的に学び考え続けてゆかなければならない、ということを再認識させられる。

彼女は、自分が生きてきた戦後45年間の自分の中の闇を、全身全霊をもって言葉でもって立ち向かう。得体のしれない自分とは何か、この感覚はいったい全体なぜ、どこから来るのかと、ときにガラスのように壊れやすく、繊細に、痛ましいまでに自分を問い詰める。

高圧線の電源の上を綱渡りでもしているかのように、その痛みに真正面から立ち向かう。自分に正直に向かい合って生まれてくる独特の 言葉の表現には圧倒される。

その問いは、読んでいる私に向かって言葉の矢が突き刺さってくる、というたぐいまれな斬新な手法で書かれている。泣けるほどにすがすがしい。

いまはまだ読み終えていないので、これ以上野暮な文章は控える。

2015-05-07

畑仕事、雑草除去の戦い始まる。

朝起きて、何はともあれ気になっていた畑を見に行ってきた。時期的にもいろんな意味で困難な中に植えた最後のチシャトウがどうなっているのかが心配だったのだ。
N氏が見つけた雲雀の卵

土の状態があまりにも悪い中で植えたチシャトウなのだが、思ったよりきちんと立っていたので少しほっとした。

畑を見回っていたら雨が降ってきたので、いったん家にもどって少し家事をしてブログを書いているという次第。

おそらく雨が上がるだろうから午後は再び畑に行って、雑草を刈ろうかと考えている。これからはしばらくの間、雑草との戦いになる。無農薬なので、その伸びる力は恐ろしいまでである。わずか一週間でうわっと伸びていた。

雑草のすごさははいやというほど体感しているので、朝夕時間を見つけてなるべく涼しい時間帯に、チシャトウよりも伸びないように、小さいうちに草をかいてゆくしかない。

言うは易しだが、根気のいる仕事である。このことが億劫な方はまず農業には向かないかもしれません。

でも考えてみると、生活全般あらゆることが繰り返しの連続です。炊事掃除洗濯子育てしかり。

そのややもすると忙しき現代人が億劫になりがちなことを、あえて工夫しながらやる方法を見つけてゆくことが、愉しさに変化する。

老いてゆく中での畑仕事の楽しさだけではなく、平凡な暮らしの中での悦びを見つけてゆきたいと考える私です。母がカボチャを種から育てた 苗が立派に育ってきています。

玉ねぎ、ジャガイモ、に続いて初めて植えてみることにしました、何しろ素人なのですから。ただ一つ決めていることは農薬は使わないということだけです。

大きくは育たないかもしれませんが、安全な野菜を育てて、育ったら身近な方々に直接販売してゆく。そんなことができたらいうことなしです。

何事も為せば成るくらいの、能天気さがないと、このような恐ろしい時代は身が持ちません(私はです)。ともあれ、次々にやらねばならぬことが切れ目なく続きます。ありがたいことです。

2015-05-06

無事に怜君と娘の日本での結婚報告会がすみました。

5月1日午後2時、怜さんのお父さん家族が我が家にやってきて、先ほど我が家を後にして旅立ちました。

この丸5日間の怒涛のような我が家での滞在の記録、わずかでも記しておきたいが、とにもかくにも我が家にとってのビッグイベントは無事に滞りなく終えたことで、なにゃら気が抜けたような、一抹の寂寥感が、私を襲っています。

がしかし、今夜から遊声塾のレッスンも始まりますし、頭のスイッチを切り替えるべく約2時間すべての部屋を掃除してから、何か書かねばとブログしている次第。

1日は午後2時について、空港からまずわが家へ 。少し休んで宝伝の海へ行き、なぎさを散策。ドレスデンは海がないので、お父さんのペーターさんは海が大好き。宝伝から牛窓に移動。

牛窓のオリーブ園から日没を眺めて家に戻り、初日の歓迎夕食会。妻と母と娘がささやかにすべて用意したお料理が食卓に並ぶ。娘の友達のイボンも入れ、10名でのなんとも楽しい夕食会となった。

2日は四国は鳴門まで出かけ、渦潮と栗林公園を観光、行きは瀬戸大橋、帰りは宇高連絡船で、夜は車すしでの夕食で締め。2台の車で往復した。

3日は、牛窓神社に詣で、海岸べりのピザハウスで昼食、その後別行動。夜は宮崎の兄姉6人との夕食会。怜君の家族と宮崎の兄や姉たち夫婦は初めての出会い。和気藹々いい感じでの楽しく時間が過ぎた。

4日の、12時から2時間今回のメインイベントの怜君と娘の 結婚報告会。雨が上がって本当に良かった。18名の参加者、親族以外では、ただ一人岡山大学の怜君の恩師が参加して下さった。

私が進行を務め、両家の出席者の紹介は新郎新婦がそれぞれ行い、馴れ初めほか、恩師のN先生が怜君の人柄、岡山大学とドレスデン大学の交流の由来やげ現在のことなど、歴史的なことなどを絡めながら、ユウ―モアあふるるスピーチをしてくださった。

すでに昨年ドレスデンスタイルの結婚式を済ませていたので、きわめて簡素にささやかな儀式ではあったが、参加者の心のこもった雰囲気が醸し出す 暖かい記憶に残る、親としては大満足の報告会となった。

怜君はこの日のは日本人スタイルで紋付羽織袴姿、とても板についていた。娘は振り袖の和服姿、ドレスデンとはまた一味違って見えた。

その後後楽園に移動、記念撮影をして、滞りなく 親族による結婚お披露目会を無事に終えた。

夜は娘たちとお父さん家族は友人たちによるパーティに参加し、私たちは宮崎からの兄姉夫婦を我が家に招き、久しぶりににぎやかに歓談の宴をもって終えた。

5日、怜君とお父さんたちは広島を観光(原爆ドームや宮島を)。私は兄や姉を見送り、お昼からは最後の夜なので、疲れ果てていた妻に替わって、私が最後の晩餐にカレーを作った。

7時近く帰ってきた怜君たちと、ささやかに締めの夕食と歓談。10時近くにお開き。6日朝7時半、彼らは京都に向かい、我が家に静寂が戻ってきたという次第。

 時折の儀式が、かくもなかなかに会えない人たちを結びつける、今年のGWはこれまでに経験したことのない感情が、私の中でしっかりと確認できたGWとなった。

82歳の母が、鳴門の渦潮、栗林公園で見せた童女のような姿が瞼に浮かぶ。老いてゆく中での人間としての役割ということのお手本をまたもやあらためて教えてもらえた気が今している。

若い人たちの幸せそうな姿を、見ることができるということの 喜び。妻の姉夫婦とも久しぶりに歓談できたし、姉の長男も立派になって参加してくれた。

 ともあれ、異国に親戚ができたことは、言うに言われぬ希望の光が我が家に差し込んできたような思いに今私はあらためて とらわれている。