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2013-01-31

父の遺した文章に思う・1月31日のブログ

斜めの写真になってしまいました、ごめんなさい

何度も同じことを書いているような気のする、五十鈴川(この川にたいする私の思い入れは深いのです)だよりですけれども、囲炉裏通信時代と異なり、はなはだ個人的自己満足的、自己慰安ブログなのでご容赦願います。

 

先日、火曜日の午後、私がひとりで雑木林の中で、作業しておりましたらMさんという女性が玉野から私を訪ねて来られました。夢が原を検索したら、園長日記が出てきて、更新されないままになっている・いろり通信・をさかのぼって読み、わざわざ私に逢いに来てくださったのです。

 

ちょうどお昼時だったので、お弁当をいろりの火のそばで食べながら、しばしお話をさせていただきました。内容はとても書けない、よもやま話としておきます。ともあれこのようなことは初めての出来事でしたので、少々驚きつつも正直嬉しい思いがいたしました。

 

もう私の中ではいろり通信は、すでに遠い感じがしているのですが(夢が原にたいする私の思いのすべてが、囲炉裏通信には入っています)、同じ人間が書いているわけですし、一年前までは書いていたのですから。

 

ただ、レイ君のおかげで、(しばらく書くのは休むつもりでいましたが)あっという間に・五十鈴川だより・がたちあがってしまい、すべてのことに関してあまり深くは考えず、その後、前を向いて生きている私としては、五十鈴川だより的時間をひたすら生きていましたので、冬の最中、囲炉裏通信を読んでわざわざ足を運んでくださる方がいるという事実に、(虚空に向かって書いているような私としては)書いといて良かったという思いに満たされました。

 

話は変わりますが、今手元に亡き父が書いた、地方新聞に3回にわたって連載された・私は生きている・という敗戦での引き揚げ体験記があります。亡くなる半年前、81歳で糖尿病に侵されながら、渾身の力で書いた文章です。(他にも26回とか、長い連載が2本残っていますが、いずれも70代に入って書いた文章です)

 

父は2000年、2月5日に亡くなりました。私が47歳の時です。以来歳を重ねる度に読みなおしては励まされています。世の中に出て、いろんな方に(人間だけではなく)影響を受けながら、なんとか還暦まで泳ぎ着いたという個人的感慨の中で思うのですが、誰に一番影響を受けたかと問われれば、やはりこの父をおいいて以外ない、そのような思いにとらわれる私です。

 

あまりに過酷な引き揚げ体験記、この年になって読むと、一行一行が沁みてきます。このような文章をわずかであれ書き遺してくれた父に、心から手を合わせる私です。父は1917年のロシヤ革命が起こった年、大正6年の生まれです。父の生きた大正(関東大震災から激変します)から昭和恐慌・戦前・戦中・戦後この時代の流れは、今すごく学ばねばならないと、個人的に思っています。

 

昭和恐慌の起こった昭和5年、父は13歳です。父が生まれてから引き揚げてくるまでの社会の出来事は、いまもっとも知りたいことです。知らず知らず社会不安が色濃くたちこめる今の時代状況とどことなく重なります。

 

私が岡山に移住してからの、この21年間の激変は語るまでもありません。いたずらにあらゆる情報に振り回されるのではなく、落ち着いて生きるのがなんと難しくなったかと感じてしまう私です。

 

これから先、もし私が父の年齢まで生きるとして、これからの20年は、果たしてどのような事件事象の連なりの歴史的時間を生きる(見る)ことになるのでしょうか。

 

父の文章を読みながら、しばし沈黙してしまう私です。

 

 

 

 

2013-01-29

21年間の企画者生活に一応ピリオド・しばし冬眠します


私のブログは徐々に、ときおり作文のようになりつつあるという感じが最近してきました。それはやはり時間にしばられないというのか、どこか心に余裕が生まれてきているからなのだと思います(時代はまるで予断を許さない、何が起こっても不思議ではない時代状況でもあるにもかかわらず)。

 

行動範囲を広げると(必要に迫られる時以外は、じっとしていることを心かけています)嫌でもお金がかかるので、いよいよフリーターになるのだから、できる限り生活を一新し、その中で見つけられそうなことに、情熱を注ぐことに昨年からしているのです。

 

おおよそ、一年近くこころみて思うのは、上手く伝えられないので、書くことは控えますが、心かけ次第で、なんとでもなるその日の過ごし方、というところです。

 

もう昔のことですが、自費で海外留学を決め、本当に切り詰めた生活を、3年近くやったことがあります。その時はっきり自覚したのですが、しっかりとした目的があれば、我慢もできるしお金も貯められるということでした。

 

さて、昨年邦楽番外地を終え、現時点で私の21年間の企画者を中心とした生活は、一応退職と定年(嫌な言葉なので、この言葉に関してはまた書きたく思います)を機に、一新したいという思いが、日に日に募ってきました。

 

この21年、よくもまあ才能もないのに、情熱の赴くままに企画してきましたが、邦楽番外地を持ってして、現時点の私の持てる力は出し尽くしたという、極めて個人的な感慨に達したのです。

 

誤解を招くといけないので、付け加えますが、企画者を廃業するということではなく、一応これまでの流れにピリオドを打ち、しばし新しい時間を無為に過ごし、たいのです。大きな企画は、何よりも経済的なことがともなうので、このような時代の中では限りなく、消耗してしまいます。

 

何よりも、企画者はあらゆる意味で自由で、情熱があり、経済的に余裕がないと決して企画は、実現しません。幸い、学ぶ情熱はいまだありますし、人間としてやりたい、企画も抱えています。よしんば実現しなくても、心の中に次の企画が発酵するまで冬眠していたい、そんな心境の私です。

 

 
薪割りに挑戦するレイ君(ブログの文章とは関係ありません)

2013-01-27

妻のお誕生会に思う


一月も余すところあとわずかとなってきましたが、私には本当に珍しく、静かで落ち着いた日々を過しています。内なる何かがやはり変わるつつあるという、気がしております。

 

世界や社会は刻一刻動いています(アベノミクスとか、アルジェリアの悲惨な出来事とか)が、私の周りは穏やかな時間が流れてゆくというこの、この平凡な平和なひとときというものは、限りなく貴重なものなのだという自覚が、私にはあります。

 

この間、私の妻の誕生日を家族全員で祝いました。長女の婚約者のレイ君も参加してくれ、やはりいつもとはちょっと異なる、皆の思いのこもったささやかではありますが、暖かいお誕生会となりました。

 

何よりも、娘たちの成長が私をして驚かせました。お料理のすべてを、娘二人が担当し、特にレイ君は、台所でずっと娘のサポートをし、ワインやプレゼントまで準備して、妻のお誕生日をお祝いしてくれました。レストランでの食事会は、私はあまり好きではなく、お金もかからず、子供たちも昔から家での食事が好きで、外食はしたがらないのです。

 

ところで、話は変わりますが、私の父の晩年の姿というものが、私が歳を重ねるようになってから、以前にもまして浮かぶようになってきたということを、以前もブログで書いたような気がします。短いブログでは書くことではなないかもしれないのですが。

 

晩年退職後の父は、どこかに出かけるときは、いつも母を伴っていました。若いころの父の姿からは全く想像できませんでしたが、徐々に、ゆっくりと、穏やかな父に変身しながら、老いらくの時間、ほとんど囲碁を打ちながら過していました。

 

そしてときおりの旅が、父には欠かせない晩年暮らしでしたが、旅のお供は母、はいつもおしどり夫婦のようでした。若いころ、母にさんざん苦労をかけたので、とにもかくにも子供より母を、晩年は大切にしていました。晩年の父の表情や後ろ姿には、裸一貫戦後引き揚げてきてからも含め、5人の子供を育て上げた男子の満足感と共に、時代にほんろうされた、悲哀感も漂っていました。

 

おそらく確実に、私も父のようにこれからは妻との時間が中心になり、老いてゆく中での、夫婦時間というものを、見つめてゆくことを第一にしたいという思いが強くなりました。小津安二郎監督は、東京物語やその他の作品で老いてゆく夫婦像(その時代の中での)をみつめています。妻は、私を活性化させます。家族あっての私の企画なのです。

 

父の気持ちが、ほんの少し感じられる年齢になりました。来月私は61歳を迎えます。

 

 

 

 

 

 
妻のお誕生会・娘とレイ君が作ってくれたお料理

2013-01-24

雑木林で身体を動かし・沈思黙考


休憩時間・疲れた体を癒してくれるいろりの炎瞬き

まさに流れるように時間が過ぎてゆきます。年明けから、夢が原にゆく日は、松林の中の雑木をきり、それを運び出し、車に積み焼却炉に運ぶという、書くのは簡単なのですが、極めて地味で、根気のいる単純作業を続けています。

正味、10日くらいやっているでしょうか。眼に見えて雑木林が、変化してゆきます。私の拙い文章ではその作業内容を上手くお伝えできないのですが、一言でいえば、鎌を手に持ちかがむ姿勢が多く、かなり足腰に負担がかかる労働なのです。でも私は、いろんな工夫をしながら、その労働を演劇的に生きる時間として、楽しんでいます。

50歳を過ぎるころから、夢が原でのあらゆる肉体労働は、肉体訓練の気持ちで取り組んできたからでしょうか、自分でいうのもなんですが、この年にしては、よく体が動くことを、幸せに感じています。

単純に体を動かすということ、億劫ではないということは、私としては幸せなことだとつくづく感じ入るのです。この齢になると70歳は、50歳の時とは異なり、そこはかとなくもうすぐだという感覚が、するのです。

だから私は自分のことですし、少しでも社会のお荷物にならないように、自分の身体は出来る限り自分の足で運ぶということにたいして、精いっぱい自覚的でありたいのです。(病気や、癌は仕方ありません、受け入れ戦うことはしないつもりで今はいます)ブログ一つ書くにしても、健康な体あってこそ、とつくづく思うのです。

私には、歩く、動くということと、書くということは、限りなくセットになってきているのです。

身体と意識はセットだと思います。来月私は61歳になるわけですが、老いと闘うというのではなく、老いを自然に受け入れてゆく中での、身体と意識の変化に、耳をすませ、日々のひそやかな喜びにしたい、なんてことを思うのです。

よく体を動かし、夜はよく眠り、朝日とともに起きる。単純を絵にかいたような、私の中世暮らしです。それももうすぐ終わるわけですが、まだ私の人生は健康であれば、続いてゆくわけです。

2013-01-20

娘が選んだレイ君は、ゲルマン魂を持った好青年


はっさくでジャぐリングするレイ君

金曜日の夜から、レイ君が我が家に泊まっている。金曜日の夜は母も含めた家族全員で、ささやかに、婚約を祝う夕食会をした。

急に私に義理の息子ができたような、微妙に言葉化しにくい現実感が湧いてきているのも事実だが、こればかりは長い時間がやはり伴うのではないかという気がしている。とはいっても男と女は、たがいに惹かれあう存在なれば、レイ君と娘が、困難な生活をひとつひとつ、クリアしてゆく努力を絶えず忘れてはならない、ということくらいしか、若い二人には送る言葉がない。自分たちの人生は自分たちで創るしかない。

まだ我が家に泊まった回数も、さほど多くはないレイ君だが、接すれば接するほど、落ち着いた、身の回りのことがきちんとしているので、自分の青年時代に比較して、しっかりしているという好印象を持ち、娘が惹かれていったのも、うなずけるというくらいに、私としては安心して、現時点で若い二人を見守っているというしかない、あんばいだ。

レイ君は、ドイツのドレスデンの大学にいるころから日本の弓道を習っている、ちょっとドイツ人の中でも、異国の文化にたいしても、関心や、好奇心が旺盛な男の私から見ても、面白い、異国の人である。岡山の大学で水質汚染の研究をしながら、今も弓の町の弓道場で修業を続けている。

就職もすでに東京の水質に関する企業に決まっている。昔の日本の言葉でいえば、文武両道にたけた青年なのである。ゲルマン魂を持った、ドイツの田舎の覇気のある好青年、という印象。私と同じで自然が大好きなので、やがては一緒に山登りなんかができるかと思うと、おやじとしての楽しみも増えて来る。

私がからきし弱い、いわゆる理系の頭も持っているので頼もしい、日高女系家族には大いなる味方が出現という感じで、妻も式もまだあげていないのに、新しい息子がたくさんご飯を食べるので、嬉しさを隠せない様子だし、母まで何やら楽しそうにしている。

太古から、人と人との出会いが、新しい文化を生み出してきたのだから、私としてはひたすら、若い二人の可能性を信じ万難を排して応援するつもりである。

2013-01-17

今年初めてカレーを作りながら思う


昨日の夢が原の陽の出

先日久しぶりにカレーを作った。私が自信を持って出来る料理はというのは限られている。
カレーはまず普通の人なら、どなたでも作れるし、家族全員(母も好きだからおすそ分けする)好きだから。

昨年21年ぶりに土日、妻と過す時間が増えたことから私の中で、反省しなければならないと思うことが増えてきつつあり、出来る限り反省したことを実行しようと心かけているのである。料理も出来る限り作れるようになりたいというのもその反省の中の一つである。

娘たちが巣立つ時が近づき、いよいよ二人で過ごす時間が増えてくる中で、身の回りのこまごましたことを、私は仕事に追われるのをいいことに、あまりに妻任せにしてきたことにたいしてのささやかな反省が、昨年の生活で起こってきたのである。

買い物をするということも、ほとんど妻任せだったが、最近は一緒にゆくことが以前ほどには苦にならなくなってきた。妻が限られた収入の中で、いかにいろんなことを考えながらやりくりしてきたのかということが、分かってきたのである。

気づいたことから、反省し実行する。妻はあまり私にたいしてあれやこれやいうことはないおおらかな性格なのだが、男の私としては長年の暮らしで、苦手と思いこんでいることも多いから、家事全般、可能な限り苦手意識を払しょくすることを、本年から心かけたく思う私なのだ。

カレー一つ作るにしても、時間に追いかけられず、限られた具材を有効に使って料理するのは、実は楽しいことなのだ。工夫する(そのことが楽しい)ことによっていつもとは異なった味になったりするし、何よりもたべてくれる人がいるから、作るぞっ、という気になるという、当たり前の真実。

大切な時間を、大切な家族のことを絶えず先ず第一に考え、生きてきた妻の生き方の細部(物事の具体的な考え方)が、共に過ごすことによって、以前よりも見えるようになってきたのである。何よりも、私の中に余裕が(お金はなくても、考え思いいたれる時間の余裕が)生まれてきたことが一番の要因だと思う。

乏しいプロデュース能力(企画者はお金を集める力がないと、イベントは出来ない、その能力が私には、足りない)の中で、企画者として、21年間ない知恵を絞って仕事をやれたという、ある種の達成感に裏打ちされ、企画者を辞めるということではなく、妻とのこれからの時間を、充実して過すことによって新たな、老春企画が生まれてくるような可能性を、カレーを作りながら感じるのである。

2013-01-15

昨年末23年ぶりに第五福竜丸を見にゆきました


いろんな思いが湧いてきました

昨年暮れ、上京した折、木場から歩いて10分くらいのところにある夢の島の、第五福竜丸が展示してある博物館を、23年ぶりくらいに(以前東京に暮らしていたときに行ったことがある)訪ねました。

友人と二人で、開館してすぐ位の時間帯だったのですが、年末でもあり我々以外には数人くらいの来館者しかいませんでした。今世界では、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、というくらいなのですが、核問題ということに関して、私も含めてですが、あまりに深く考えるということを放棄してきたのではないかという、私の中での自責の念が以前にもまして起きつつあります。

それは大多数の私も含めた、一般庶民が生きることに忙しく、考えても仕方がないと言うほうの側に、追いやられているという現実もあるのですが、還暦を迎えてようやく、少しはゆったりと物事を深く考える時間が訪れようとしている今、これからの人生の時間を考えた時に、自分が本当にやりたいこと、または今だからやれることを、静かに自問自答した時に、自分には荷が重いということは、重々承知しながらも、避けられない問題がやはり、一個人として核の問題という気がします。

私がまだ2歳くらいの時に、南太平洋のそれは美しいビキニ岩礁付近で、日本のマグロ漁船第五福竜丸が、アメリカの核実験により死の灰を浴び、その後乗組員の方々が悲惨な人生をたどられた、歴史的事件の詳細を常識的な範囲であれ、いかほどの日本人が認識しているでしょうか。

あんなきれいな海で、先祖から穏やかに暮らしている人がいる中で、米国はかってにヒロシマの放射能の1000倍とも言われる、水爆実験を行ったのです。もし日本のマグロ漁船が被爆しなかったら、日本のマスコミではほとんど報道されなかったかもしれません。

西アフリカのマリ共和国が(マリの音楽家を夢が原でやったので、マリと聞くだけで眼がゆく)大変なことになっていることをM新聞で知りました。大国の利害、国益が私たちの預かり知らない所で行われているというおぞましき現実。シリアのドキュメントも見ましたが、正視できないほどでした。(眼をそらしていると、それはやがて我が身に及ぶというのは有名な亡くなった女性詩人の言葉、きちんとした名前が思い出せない)

フクシマの原発事故放射能汚染地区に住めなくなっている方々は、原発反対どころではなくとにかく生活しなければならない。ごく普通に暮らせるまでに、人知では及びもつかない途方もない時間が必要な放射能汚染は、まさに悪魔の物質というしかない、危険極まりないものです。もし自分がそのような境遇に置かれたら、というごく普通の感覚を忘れたくはないものです。

ごく普通に生活できる私なんかは、もっといろんなことを学び考え、発言すべきだと考えます。還暦以後はまったく一個人に還り、思うことはこのブログで発言します。そしてお金はなくても知恵を絞り、還暦おじさんとしての企画をささやかにやりたく思います。

娘たち(あらゆる人類の)の暮らしの未来にたいして、この年まで生きられたものとしては、何がしかの責任があると思います。各々その人らしい、あらゆる表現活動が出来ると思います。(そんなことが自由にできる国はそんなにはないのではないかと思います)私もなんとか生活する方法を見出しながら、何が私にできるかをこの冬の寒さの中で、知恵を絞り、そしてこのブログを開いてくださる方と共に考えたく思います。

訳知り顔の意見よりも、表に現してのアクションが必要だと思います。深刻な命題・テーマであればあるほど、ユーモアを忘れず。