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2013-01-05


昨年末、本当に久しぶりにじっくりTVを見ました。プロフェッショナル、イチロー選手の特別版。たまたま知って、夕食後少し休んで起きてみました。スター選手の孤独な表情が、こんなにもアップで長くとらえられている、インタビューというものは見たことがなく、ひとりの人間としてのイチロー選手を、身近に感じました。

 

私は野球のことは、ほとんど知りませんし、さほど興味もないのですが、怪我や肉体の衰えという宿命を(どんな人間もそこから逃れられないとはいえ)特にスポーツ選手は負っています。

 

年齢を重ね思うようなプレーができなくなり、決断を迫られ、あらゆる意味でのギリギリの精神的な苦悩を、この数年続けてきたイチロー選手の言葉は、多弁ではないがゆえに、世代を超えて私ごときの中にも、響いてきました。

 

私が、一番興味深かったことは、イチロー選手が野球選手という枠を超えて、生きる(姿勢)ということ(哲学的領域に入っている)にいかに真摯に向き合って生きている人間であるかということにたいしての、驚きでした。冷静に自分と向き合う力が途方もなくある人だということ。

 

彼はお金やそこらの、眼に見える現世的な次元の、はるか遠くを見据えて、絶えず肉体が衰え、やがて訪れる死を(たんなるバットマンとしてではなく)意識しつつ、今日を精一杯プレーしているという潔い美学があること。その一点にたいしての、気づきの深さに、心から驚かされました。

 

繊細で、傷つきやすいということも知りました。熱狂的な女性ファンとの別れのハイタッチに見せた、彼の不器用な真骨頂。夫人に対する思いやり。愛犬一弓に見せる、別人的な接し方。おそらく彼は心を許した方には、別人のように多面的な表情を見せるのだと思います。

 

ともあれ、最後の彼の言葉は、深く私の心に残りました。笑ってバットを置く、笑って死にたいという言葉。これは人間の命の終え方としては、理想と思えます。

 

その一点に、彼は焦点を絞って、日々生きています。

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