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2012-09-06

土取り利行氏による・邦楽番外地今夜から始まる

10数余年の歳月をかけて書かれた比類のない書物

御挨拶にかえて

 

1978年、26歳の時、ロンドンで土取利行(つちとりとしゆき)さんと出会わなかったら、おそらく私はその後このような人生は歩まなかっただろうという気がする。それほどに2歳年上の彼との巡り合いの意味は、今はまだ落ち着いては語れないほどに大きいという気が、やはりどうしてもしてしまう。

 

二十代後半、初めて土取さんのドラムソロを聴いた時の衝撃は、ふわふわ生きていた私にとってまさに驚天動地、細い鍛えこまれた肉体が鞭のようにしなり、発せられる打楽の音の周波は、根底から私の身体を揺さぶった。一時間以上のドラミング(いろんな世界の見知らぬ国ぐにの打楽器も、その時初めて見た)のソロ、肉体を限界まで酷使し、表現する前人未到の音の世界。フリーインプロビゼーション、即興による音の乱舞。

一流の音楽家のコンサートに出かけて、口当たりのいい心地よい音楽しか聴いたことのなかった私は、あらゆる音の波動が私の全身に襲いかかり、なにがなんだかわからないほどに打ちのめされてしまったのだ。それほどまでに全存在を賭けて、身体を使い、声を出し、叫びとささやきの、パーカッションを聴いたことがなかった私は、一言でいえば商業的な音楽家とは全く異なる音楽家の未知の存在に、ある種の畏怖の念を初めて持ったのだ。

宇宙の波動、純粋な魂の肉体から発せられる音の世界は、限りなく広く、繊細多様で、真の音の一滴は、肺腑をえぐりまだ若かった私の心の深いところに沁み入ったのだ。以来、土取さんの存在は、私の心の片隅から消えたことがない。

 

四十歳で、美星町の中世夢が原で企画者として再出発した私は、いつか土取さんを企画する夢を心に誓いながら、縁の在る方々からのオファーを中心に企画者の修業をしながら、機をうかがっていたのだが、ようやくその機がやってきたのは、日韓パーカッションフェスティバル、私は五十一歳になっていた。

 

還暦を迎えた私が、今、再出発に企画するのが土取さんの邦楽番外地、明治大正演歌の世界を選んだのには、いろいろな思いが詰まっている、余白の都合で割愛するが、氏と巡り合い三十五年、私の企画者としての個人的な、一区切りの集大成として、どうしても企画したい希有な、異能のアーティストなのである。

土取さんは、いまだ一貫して人生を賭して、あえて芸術のミューズの神に道をゆだねている。そのような方に、一回性の実人生で巡り合い、企画できる喜び、あきらめず何かを探してきたが故なのだと、ここまでささやかな私の人生を導いてくださった全ての方に、感謝します。

 

2012年・9月7日・金曜日  日高奉文

いよいよ前夜祭、今夜のレクチャーから、邦楽番外地が始まります。やると決めた時からまさに流れるように、時がたち、その日が迎えられる喜び(苦しみも含むなんとも言えない感情は、企画者ならでは)はなんとも言えないものがあります。

 

上記の一文は、当日来られた聴衆に配布するために、一週間前に書いた文章です。私のブログを開いてくださる方がたにも読んでもらいたくアップすることにしました。

 

午後には土取さんもやってきますし、他の出演者も今日から自主的に岡山入りします。カンカラ三線の、岡君、音響のS氏も経費節約で我が家にステイします。

 

それから、以前このブログで少し触れた、チベットのフィルム・オロ・(来年上映会をしますのでくれぐれもご協力お願い致します)を撮られたカメラマンのT氏が手弁当で、我が家に宿泊し、今回の邦楽番外地を記録して下さいます。今の時代に明治大正時代の演歌を歌う、土取利行氏の仕事を記録することは、日高事務所の大切な仕事の一つだと、考えます。もうそれだけで、精神的には黒字です。

 

Tさんレベルのカメラマンは、ギャラのことを考えたらとても来てくださいとは、思ってはいても、なかなか口には出せないのですが、口に出してみましたら、スケジュール空けてるよ、との御返事。持つべきは友、苦しい時に頼りになるのが真の友。出演者もスタッフも素晴らしい、このような方たちと仕事をするということが(したくなる)私にとってのイベントなのだと思えます。

 

これから二日間は私にとっての、極めて個人的にささやかに、聴きに来てくださる方たちとの超ミニのお祭りが始まる。今こちら側で生きている我々と、彼方に往かれているあまたの方々との、祈りの交流のイベンチュアルな祭りである。演じ奉じるのは土取利行氏とその仲間である。

 

当日券を、20枚用意しました。このブログを開いて、聴いてみたいと思われる方いらしたら、どうぞお足をお運びいただきますよう重ねてお願い申し上げます。

 

 

 

 

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