夢が原での、やはり無心の草刈りのおかげなのか、天地の力なのか、徐々に大冒険企画の疲れもさわやかな朝夕の涼しさと共に、普段の生活に戻りつつあります。
早寝早起きの生活は、すっかり私の生活では今では当たり前になりつつあります。一日一日夜明けが遅くなってゆく季節ですが、早朝駅に向かう道すがら朝日を浴びるのは、なんとも言えません。
夢が原のおかげで、この21年朝焼け、夕焼けの美しさに見入り、何度救われたことでしょう。陽の出、夕日を愛でる、月を愛でる、これは死ぬまでできる、私の生きているお金のかからない、ささやかな楽しみの一つです。
花鳥風月を愛でることを、ことのほか日本人は好みます。どのようなイデオロギーも苦手な私ですが、日本人ならではの感性は、いくばくか、いかに西洋化の影響を受けたとはいえ、心の深いところを脈々と流れている、そのような思いにしばしばとらわれる、還暦の私です。
さて前回、邦楽番外地の余韻いまだ冷めやらずということを書きましたが、添田唖蝉坊の世界を土取さんによって、知ることができ、還暦で唖蝉坊に出会えたことは、うまく言えませんが、これから私が生きてゆく上で、大きな支えになるような予感がします。
それほどまでに、強靭な精神の自在さというものに満ち満ちている、多様な唄の世界の豊かさに、(私自身が今を生きる中で見失っていた大切な世界が、わんさか詰まっているということに)遅まきですが、気づきつつあるという自覚です。
この感覚は、実にわたしを穏やかにしてくれる感覚としか、いまは記せないのですが、何か企画者として、ささやかなるとも、たんなる音楽会を企画するのではなく、たまたま集う、来られた方と演者スタッフ、一期一会の時間が幸福感に包まれるような企画を、やりたいと、考えるのです。西大寺観音院に来られた聴衆は素晴らしかった。
ヒトはどこからどこへ向かうのか、私自身途方にくれながら生きていますが、再出発企画として直感的にこれだと思った邦楽番外地は、お金では買えない何かを私に知らしめました。
お休みの今日午後、在りし日唖蝉坊が立ち寄ったという、玉島の円通寺を訪ねてみようと思っています。
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