ささやかな企画者に勇気を与えてくれる本橋監督のすごい仕事 |
格別な、思いもかけないが起こるというのは、人生の大きな喜びの一つだと思うけれども、夢が原を辞める決断をしてからというもの、嬉しい出来事や、予期せぬ新たな出会いが次々に起こり、そのことが実に私の精神を、さわやかな喜びで満たしてくれている。
この年になると、他の人は知らないが、そうは度々嬉しい出来事というのは訪ずれないのが普通のような気がするのだが、(当たり前のことだが)初めて60歳代に入って感じるのは、やはり心と身体がいきいきとさえしていれば、その内なる自分に素直に反応する、勇気さえあれば、つぎ次に物事は展開し、新たな相貌を見せるのだということを、実感している。
一昨日、円通寺(素晴らしいお寺でした)を訪ね、朝が早い私が、めずらしく夜遅く帰ると、封書が机に。差出人は、ナージャの村で土門拳賞にも輝き、ナージャの村や、アレクセイと泉、の映画フィルムも撮られている、私が尊敬しているお仕事をされている、写真家・本橋成一氏からであった。
あけてびっくり、詳細は私の拙い一文で、ブログに書くことは控えますが、わたしの再出発を祝福して下さる、もろもろが入っていたのです。身に余る志と、再びの芸人さんにカンパイの言葉、とどめは、ささやかなファンですヨ、の言葉。
実はこの夏、8月のある日、本橋監督(私は氏の作品である、アレクセイと泉のフィルムを10年くらい前に、岡山で自主上映したことがある関係から、どうしても監督と呼んでしまうのです)の・屠場・という30年以上かけて撮られた写真展が東京に続き、大阪でも開かれていたので、ブログには書きませんでした(簡単には触れられない)が、なんとか見に往く機会を持ちました。
その写真展は、これまで私が見た写真展の中で、人類(人間)が生きてゆく上で、もっとも根源的なテーマを内包した、一言でいえば写真展でした。月並みなことばでは形容できない、人間が生きることの闇の深さ、と、屠場で生きることを、職業とされている方々のその深淵が私ごときにも、圧倒的に伝わってきました。
牛を解体することで生きてきた人たちの、その存在感のすごさ、素晴らしさは、ある種私には、牛の存在感を超えるほどに、迫ってきました。構造の見えないあらゆる快適機器に踊らされ、生きた自分の肉体を忘れ、貧血気味の大多数の都会でしか生きることの叶わぬ現代人。命の血しぶきが、見えなくなっている我々の暮らしに、強烈なインパクトを与えずにはおかない、白黒作品とは思えない、いろんな色・気配を感じさせる写真の数々。
素人の私にも感じる、デジタルでは、とらえられない、本橋感覚。見えないからこそ素晴らしい、想像力を鍛えずにはおかない、闇の真実。
普段の暮らしではまず見ることのない、アンタッチャブルな世界をこんなにも、芸術的に昇華(ある種の神々しさを感じた)するまでに、時を待って発酵化された、比類ない闇の奥の奥の、人間存在の素晴らしさ、輝きを見つめ続けた写真家の三十年の重み。
誰もがなしえなかったことに挑戦し、生きた(陽の当らない、ヒトがあまり見ようとしない世界に活きる人に対する慈愛の感覚)お金とは無縁な仕事を一貫して続けてきたからこそから、成し得、到達できた闇の世界の温かさを伝える写真展でした。
そのような大先輩から、ファンだと言われたことの嬉しさは、言葉では表せません。散々心配をかけた、闇に眠る両親にこの嬉しさを伝えました。
監督、ありがとうございました。私もささやかに、精進します。
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