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2025-01-26

休日、春のハレノワでのスパイラル・アームズ公演の応援依頼文を書き、宛名を筆かき、一筆入れ投函する。

 この年齢になると、いよいよもってあれもこれもはできず、ということを実感しながら、やれることを少しずつ進めている。平日はフルにではないが、肉体労働をしているので、ここいちばん集中力をもってやらなければならないことは、土曜日曜日にやることにしている。

1月21日猪風来縄文美術館にて

五十鈴川だより、かなり日録的になってきているのを自覚している。今週何をやっていたのかを忘れないうちに、打っておかねばとのおもいが増してきているのだ。振り返り記録を確認するかのように打っておくことを習慣化することが、脳のセロトニンを増すのでは、という淡いおもい。自分で自分のモチベーションをあげてゆくのである。

ということで昨日は、ハレノワでのスパイラル・アームズの4月30日の公演の案内、お願いの一文を朝いちばんに書き、同封する私がこれまでに書いた拙文を2枚含め、3枚をいれ、墨を擦り宛名だけ小筆で書き(あとは万年筆)、40通以上を仕上げた。今日はその宛名の方々に一筆いれて、投函する。

まだフライヤーもできていないのに、自分が近しく感じている友人知人へ一文を書いて、お願いをするのは、仕事ではなくリタイヤ後、再び今回のような企画をするようになってからである。庶民の私の個人企画イベントは、規模にもよるが一人で背負うのはまず無理である。

だから、できる限り友人知人の他力の応援を仰ぐべく、知恵を絞って私は私なりの方法を思考実践するしかないのである。時代遅れ感覚を十分以上に自覚している私だが、幸いなことに、私の苦手な分野をカバーしてくれる、妻や家族の応援があればこそかろうじて、この数年の企画が実現しているのである。

それとこれまでの人生で出会えた貴重な友人、知人の存在なくしてはまったく実現することは叶わなかったであろう。私の友人知人も当たり前、年齢を重ねているが、土取さんや猪風来さんはもっと年長である。外見はそれなりの年齢を感じさせるが、その内面の輝き、泉のような枯れない若々しさは、いったいどこから醸し出されてくるののであろうか。謎である。

土取利行さんからの依頼があったとき、思ったことは企画を受ければ、少しでもその謎をかいまみえるかもしれないし、なによりも小さな世界に安住し、ややもすると守りに逃げ込み、好好爺に成り下がってしまうのではないかとの怖れを、払拭するのにはまったくもって、最高のタイミングでのオファーであったのである。多分、土取利行さんでなければ引き受けてはいない。

そうはいっても、私は自分のやれることをまったく過信してはいない。もっと打てば、もう年齢的に、イベント企画にはほとんど関心がなくなってきていることを、私は正直に告白する。(ひとりでやれることに関心がシフトしているのである)

そしてもっと正直に告白する。自分で言うのも気恥ずかしいのだが、土取さんや猪風来さんの、世界の行く末に対するあまりの真摯なこれこそが芸術家とでも言うしかない直感力的危機感、(裏返しの人類のみにとどまらないあらゆる生き物に対する愛の深さ)をようやくにして深く共有実感できるようになってきた、己を感じるからこそ、例外、土取さん猪風来さんとはなんとしてもタッグを組みたいのである。

お爺さんではあるが、これまでに、私なりに学んできた方法で、地を這うようにチラシを配布して歩きたい。顔の知らない、未知のどこかの誰かの目に触れるように。反応してくれるように。土取さん、猪風来さんの足跡は圧倒的に傑出している。若いかたにこそ知ってほしい。

土取利行さん、猪風来さんの前人未到の荒野を、黙々とただ🦏のように歩み続けている稀な人間アーティストを企画できることの、喜びが私の今を限りなく活性化させている。

PS 写真は1月21日土取利行さんが猪風来縄文美術館を訪ね、2時間秋のイベントについて打   合せをしたさい、土取さんに32歳の若さで逝去されたご子息村上原野さんの遺作となった作品について、お話をされている猪風来さん。

2025-01-18

2025年、書写始め、手島圭三郎さんのお仕事を(素晴らしい絵本の文章)このところ書いてます。

 今週4日無事に寒い中、楽しく働け、あらためて動く体の有り難さがが染みた。体の回復と共にほぼ完全に、普段の生活にシフトして今日を迎えている。妻も普段通りに働けるようになり、平凡生活が戻ってきた。ただ、嬉しい。

原画をみに行きたい

さて、今年からかなり真面目にやりたいことのひとつに、日本語の気に入った本や、言葉を書写することがある。以前からシェイクスピアの作品の気に入った台詞の書写をやってはいたのだが、シェイクスピア作品の書写だけではなく、絵本や詩など分野にこだわらず、とにかく手を動かして、ノートに書き込んでゆく時間を楽しみたいという素朴な気持ちがよりましてきたのである。

今年もまた、働くという楽しみ、働けるというありがたさを第一義に、日々の暮らし、生活を基本に、生きる喜びの糧として、旅や読書や音読にもうひとつ、書写の楽しみを深めたいのである。さしあたって手島圭三郎さんの、あまりに素晴らしき作品の絵本の書写から始めたのだが、理屈抜きに楽しい。書写しているときにはまったく余計なことを考えず、ただひたすら手を動かすだけなので、精神的にすこぶる私に合っている。

単純労働しかり、単純な所作の繰り返しが、単細胞の私には、ことのほかあっているのだということのあらためての気付きが嬉しい年明け早々の私なのである。一人もくもくとできるのがいい。草刈りや草取りもだが、一人でやれるのが何よりもいいのである。

まったくお金もかからず、出掛ける必要もないので時間も、かぎりなく有効に使える。かぎりなく高齢者向き、私向きである。年金生活者になったとき思ったことは、かぎりなくお金に頼らず貧乏ではあれ、慎ましき喜びの追求ということの実践と思ったことだったが、そのことをただひたすら今年も続けたいと、願っている。年金生活以外に、自分のやりたいこと、好きなことで副収入があるということは、すなおに嬉しい。

それと、体が喜ぶ独学の楽しみの追求である。学ぶことはまさに終わりなし、日々充実して過ごすのには私の場合学ぶことがやはりいちばん、楽しい。老いてゆくとだんだん記憶力他が、弱くなってゆくのは摂理だとはいえ、そこをなんとかならないものかとのおもいで、少しでもじたばた反復単純繰り返しを、脳の海馬に向かって刺激をおくる術のようなことを続けたい。

言うは易し、実践はかたしではあれ続ける。3日坊主の私が10年以上続けていることが、気がつくと5つくらいある。これを今年も続ける。目標はいつも低めに設定する。いちばん確実にやれることだけをやる。難しいことには老いたら手を出さない。ささやかで十分誰かの役に立つことを心かける。とまあ、元気になったことの証左、あれやこれやを思考する私である。


2025-01-13

元日本代表サッカー監督、岡田武史さんの現在を伝えるNHK今治放送局の【これから】を見て感動しました、そして思う。

3連休最後の朝である。体調万全とは言いがたいが鼻水も収まってきた。気力が萎えたら免疫力が落ちると能天気に確信しているので、何はともあれ何でも綴って五十鈴川だよりを打ち続けることで、心身機能をわたしは調節する。何よりも喜ばしいのは、妻の体調も回復傾向にあり、台所に立てるようになってきたことである。
村田喜代子さんの本はじめて手にした


ややもすると、この年齢になると当たり前だとは思うが、体力が落ちると回復も長引く。だがそこをいかにして前向きに工夫し知恵を絞り、養生してゆくのかそこが思案のしどころである。この二日間ひたすらじっとしていたお陰であきらかに体は回復している。その喜びが五十鈴川だよりを打たせる。

話は変わるが、今朝妻が今治NHK放送局製作の、前サッカー日本代表監督の岡田武史監督のインタビュー番組を見て、見るのを薦められたのでNHKプラスで見た。今治でサッカーチームのオーナーになって丸10年の岡田武史さん(現在68才)の歩みがスタジアム完成として結実した。

地方で、この経済が疲弊した時代にである。一人の男の途方もない夢が、格安の、だがしかし本当に地域に根差した、人々の心が美しいスタジアムとして完成する。スタンドから街、島々、海が望める。岡田武史さんは借景が素晴らしいスタジアムと言っておられた。この借景はいくらお金を積んでも買えないものである。

一口に10年という地道な時間の積み重ね、ローカル今治で、ゼロから途方もいない夢に向けての地道な取り組みの過程が、短い時間で編集され、よく伝わってきた。何よりも武骨で口下手な岡田武史さんのお人柄に感動した。何よりも明確なビジョンとたぎるような情熱、意思と支える仲間がいれば夢は叶うのである。そのことをあらためて知らされた。

人間を人間足らしめていることの大きなひとつに、感動するということが欠かせないという気が私はするのだが、妻がよかったというので見る気になったのだが、今年最初によき番組に出合得たこと、それも体調が万全ではないなかで見ることができてよかった。サッカースタジアムが完成してお礼の言葉を地域の方々にのべる際に、あのクールなイメージの岡田武史さんが、感極まって涙を流された時には思わず私ももらい泣きしてしまった。

人は自分のためだけでは、そんなに頑張れない。他者の喜びのため地域の喜びにこそ頑張る勇気がわいてくるし、これからの時代は自分の頭と体で考えて動ける人間でないと生き延びることができないと、岡田武史さんは語る。まさに前例なき危機の時代を乗りきらなくてはならないのだ。その非凡な日本の未来を憂える危機感が、58才からなりふり構わず、未知の今治で悪戦苦闘、従来のサッカースタジアムでは考えられないほどの低予算で完成する。地域住民がサッカースタジアムで生き生きと交流する場所としての再生機能を果たす。

10年前、ことサッカーのことだけに留まらず、日本の未来に、特に若者の未来に強烈な危機感を感知した岡田さんは、なんと私立高校の校長先生までを勤め、教育の現場の再生にまで取り組んでおられる。発想がまったく新しい。世界相手に従来の紋切り型教育(サッカーを含め)ではまったくダメであることを岡田武史さんは深く認識している。

昨日の五十鈴川だよりで触れた佐藤勝さん、方や分野はスポーツではあるが、すばらしく共通するのは未曾有のこれから先を生き抜いてゆく新しい日本人の教育に全力を注いでいることだ。点取り虫ではない教育の必要性、危機感を心から憂えていること。そして単に憂えているだけではなく、どうすれば克服できるのかを、お二人してその方法を実践していることである。





2025-01-12

佐藤勝氏の、知の技法を読みつつ、ひたすら体調を整える。

 少しずつインフルエンザの症状が快方に向かっているという安堵感が私を五十鈴川だよりに向かわせる。栄養をつけ、やり過ごす、忍耐、辛抱という言葉を呪文のように繰り返す。このようなことを打つと何やら深刻感が漂うが、当人は至って気楽に過ごしている。鼻水がおさまればもうあとはほとんど生活に支障はなくなってきている。

今年最初に読んでいる本

これで妻の体調が戻れば、私としてはいうことはない。幸い3連休なのでここはじっと我慢をして、外気に触れることは避けて部屋のなかでじっと、昨日も打ったが猫のようにじっと生活、本を読んで過ごしている。

手にしている本は、佐藤勝著、知の技法である 。今から10年前に上梓された本の文庫版である。おおよそ2005年から2015年までに書かれた文章や対談が、講座形式で全10講座にまとめられている。

出版された当時も手にしたはずなのだが、内容をどれ程深くつかんでいたのかはまったくお恥ずかしいほどのものであることを、この度再読して(今212ページまで読み進んだところ)痛感している。

(それにしても佐藤勝さんの視野の広さ、記憶力の底しれなさには脱帽舌をまくしかない、よくもまあ、このようなスケールのでかい知識人が出てきたものである。わたしにとっては分野は異なるが土取利行さんと双璧である)

読み進めて思うことは、逆境に強い氏の思考方法がいかに培われてきたのかの、一端を垣間見ることができるという点で、以前はちんぷんかんぷんに思えたほどに遠く感じられた文章が、かなりすいすい読めるようになり、読んでいてへーっといたく知的刺激を受けることが多くなってきている。だから読める、面白い。

大学も出ていないわたしは、佐藤勝さんの(かってに私の先生だと思っている)知的胆力に畏怖の念を覚えるほどの仰ぎ見る本物の知識人だとかってに思っている。佐藤勝さんが国策捜査で理不尽な判決で有罪逮捕され、512日間東京拘置所に収監され、出所後出版された本の、国歌の罠、外務省のラスプーチンと呼ばれて他、が私などのごく平均的な庶民にでさえ与えた衝撃は、オーバーではなく思考のコペルニクス転回を迫るほどに衝撃的なものであった。

今から10年前に出された本ではあるが、今読んでもまったく新しく読める。読んでいる私があきらかに変容(いい意味でととらえたい)しているからこそ、まったく新しい本として読めているのだし、読む速度が遅くなったとはいえ、教養が生きる上で最強の武器であると学ぶことの醍醐味をこれほどに赤裸々に伝授、説得力をもった知識人を他にわたしは知らない。

佐藤勝さんは筋金入りのキリスト教神学者である。佐藤さんの本を読むまで、神学という学問があることさえ、わたしは知らなかった。それほどまでにわたしは、今もだが無知である。だが学ぶことの面白さ、独学の有り難さはふかまっている。(ように感じている)

古稀を過ぎて世俗的な動向他にとんと関心が向かわなくなりつつあるし、この事がいいことなのか、たんなる老化現象なのかは、しばらくおくとしても、私としては佐藤勝さんの本や、佐藤さんがおすすめする本を、これからいよいよ生きているうちに学んで過ごしたいという、老いらく学び願望は増してきている。

2025-01-11

寒中を外では犬に、家では猫に変身する五十鈴川だより。

土曜日3連休の朝である。この一週間体調が万全ではないなか、なんとか3日間ほど働いて今日を迎えている。交代というわけではないが、今度は妻がダウンしてしまった。共に生活しているのだから、こればかりは致し方がない。共倒れでにはならなかったのが、せめてもの救いである。
お正月近くの公園で横たわるノア

幸い、万全とは言いがたいとはいえ、五十鈴川だよりを打つ気力が戻ってきたことがまずは有り難い。とはいえ妻の体調がもとに戻るまでは、つとめて家事他をきちんとやらねばならない。共に生活するということはそういうことである。

一人であれ、二人であれ生活を維持キープしてゆくということは、ただもうそれだけでをこなすというだけで、大変なことであるとあらためて知らされる。そういう経験を年明け早々味わっていることを、私はよき方に受け止めている。

日々丁寧に生きるということを、還暦以後自分に言い聞かせているといった塩梅なのだが、今年もまたそのように生きる、生きたいということに尽きる。そのためにもっとも肝心、大切なことは健康第一で動ける体の養生である。

お正月早々、身に染みている。そういう意味で大局的によき時間を過ごさせてもらっていると、私は受け止めている。亡き母が風邪は万病の元と言っていたが、ようやくにしてその言葉が染みる年齢になってきた。

妻は五十鈴川だよりにあれやこれやを書かれるのを嫌がるので記さないが、老夫婦の在り方の慎ましき現在を再確認するという意味で(まだ完治してはいないが)も、夫婦二人してインフルエンザに罹患したことで、多岐にわたっておもいをくゆらせられたことが、恵みである。

ところで、この一週間薪ストーブの上でふんだんにお湯を沸かして、我が家特製のペットボトル湯タンポにどれ程助けられているかわからない。寝るまえに布団のなかに入れておく、潜り込むときに包まれる暖かさは、ささやかな至福である。

人は大事な人たちと、ささやかな至福感があれば、この年齢になると十分生きるに値する。今、これを打つ2階の部屋に冬の日差しが降り注ぎ、私の背中を暖めてくれている。夏のお日様は苦手だが、冬のお日様は大歓迎である。ポカポカお日様の陽光に身を委ね、猫のように暫し生活し、立春を待つことする。

2025-01-06

大晦日、寸暇打つ、五十鈴川だより1。

 大晦日の朝食後、寸暇打つ五十鈴川だより。昨日から次女の旦那さんと、3才の葉君が加わり、9人のまあ大家族となり、我が家は3人の孫たちの声があちこちで響きわたっている。

右望晃(のあ)6才、左葉3才、共に遊ぶ

私が打っているそばで、ノアが冬休みのお勉強をしている。そうこうしているうちに、葉がやって来て、私の膝の上に座り、とても落ち着いてブログを打つなんてことはまず不可能なのであるが、この喧騒の中でも打つ楽しさのようなものが私にはある。

妻や娘たちは、洗濯物を畳んだり、洗濯物を干したり、あれやこれやの家事に忙しい。その合間本を読んだり、歌を歌った利と、孫たちとのお相手に余念がない。何せ孫たちは、一瞬たりともあらゆる動きをやめないからである。

そして私は、その女性たちの動き、若い私たちの世代とは異なる、現代の子育て真っ最中世代の、悲喜こもごもを寸暇垣間見しながら、改めて子育ての大変さを勘案しながら、私のような爺さん世代がお役に立つことの重要性を、娘たちの子育てを年の瀬共有しながら、現代の家族のあり方を、嫌でも考えざるを得ないし、そのようなことをつい思ったり、考えたりすることで、高齢者の役割の今なすべきことが、やんわりと見えてくるような気がするのである。

幸いなことに、無事に家族が集い、このように能天気に大晦日、五十鈴川だよりを打てることの平凡な喜びを、心底私は堪能している。このような平凡な当たり前の慎ましき喜びが、いかに非凡な出来事であるか。と、まあここで一旦中断。

2025年最初の五十鈴川だより、義理の息子レイさんに買ってもらった新しいキィーボードで打つ。

 明けましておめでとうございます。

新しい年も一日一日大切に生きたい

年末年始、お天気にも恵まれ、つつがなく穏やかなお正月を家族全員で過ごせたことを一行記せれば事足りるほどに、わたしにとっては有り難いお正月でした。

が、2日長女家族、3日次女家族が帰京し、我が家は火が消えたかのような静寂に包まれ、そのあまりの慎ましき喜びの反動なのか、3日の夜からにわかに体がだるくなり、これはいかんと早々に横になったのですが一昨日4日朝熱を計ると37度8分、咳も出始めインフルエンザに罹患したと覚悟しました。

土曜日だったし高熱ではなかったので、39度を超えるようなことになったら緊急外来を考えることにしてひたすら横になっていました。まったく食欲がなくなってしまったのですが、妻が用意してくれたものは、残さず食べてひたすら安静にしていました。日曜日一番高いときで38度8分くらいまで上がったので、この状態が月曜日まで続くようだったら、医者にゆこうと決めました。

安心は禁物なのですが、幸いなことに昨日の夕方くらいから熱が下がり始め、咳も治まりつつあります。今36度6分、かなり平熱に近づいてきましたので、新年のご挨拶を何はともあれ打たずにはいられない、業の深い私なのです。妻にばれたら叱られるので本日はこれくらいにしておきます。

妻が私になり代わり、オンライン診療なるもので、薬を処方してもらい今日のお昼からそれを飲んでいるので熱が一時的に下がっているだけなのかもしれないので、今しばらく安静にしておきます。2日間よき安息時間をいただいたこと恵みです。昨年に続いて、今年も平凡に日々の新しい時間を有意義に過ごしたく想います。世界の安寧を祈念(いのり)ます。