ページ

2024-06-30

6月末日、立花隆著、最後に語り伝えたいこと、大江健三郎との対話と長崎大学の講演を読み想う五十鈴川だより。

 まさに梅雨本番と言うしかない小雨模様の朝である。少し迷ったがメルの散歩を済ませ、朝一番公園を散歩し、牛乳他必要な品を求め、五十鈴川だよりが打ちたくなった。3連休今日が最後である。この二日買い物と散歩以外は家から出ず、おもに本を読んですごし、眠くなったら寝るという、(この半年のたまった疲れをひたすら体をやすめるということに)気まま極まる時間を過ごしている。(本質的に私はぐうたらである)

このような正直な知識人は希である

ボーッと過ごすひとときが、いかに大切か、そして睡眠がいかに無意識につもり積もった形容しがたいおりのような疲れを、どこかへ運んでくれる有りがたさを想う。つくづく私はいい加減な存在である。歳を重ねると睡眠が浅くなるとか眠れるなくなるということをよく耳にするが、私の場合今のところほとんどそのようなことがない。あっという間に眠りに落ちて気持ちよく起きられる。

そのような生活が、ほぼ32年間。そして大きな手術前も、その後も持続できている。お陰さま、よく寝て食べ、働き、限りなくつましくも、(臆面もなく打つが)限りなく充実している生活が何とか送れている現在(いま)、平安に五十鈴川だよりを打てることへの在りがたさは例えようもない。ちょっとスイッチを入れれば目を覆いたくなるようなニュース映像、老人の私にはまるで理解に苦しむ事件、ときに気が塞ぐ。

老人は塞いでいたら持たないので、どこかで平衡感覚をキープするために、過剰な情報はインプットしないように心かけている。信頼できるかたの教え、情報から繰り返し学ぶ方が限りなく有益である。だからもう今年から新聞も購読をやめた。古希をすぎ十分すぎるほどに生きてきて、いつ何が起きても悔いることのない生き方を、今現在も継続している(できている)つもりではいるので、わがうちなる声なき声に耳を傾けて生活する、しかないという、どこか諦念感覚を生きている。

できるだけ静かに暮らす。やりたいことにのみこれからの時間を過ごす。家族、友人、今、日々の生活のなかで過ごす人たちとの気持ちのよい関係性を深めて行きたい。それから読書。シンプル極まる生活を限りなく大事にしたい。そのような生活のなか6月も今日が最後の日なのだが、3月23日から始めた音読リーディングのお陰で、私よりずっと若い人たちとの新たな関係性が生まれてきていることが、どこかでやんわりと私を活性化させる。(魅力的な面々である)

それもこれも、シェイクスピア作品の音読リーディングを継続してきたからの恵みという以外に言葉がない。シェイクスピアの作品を介在して、他者と本質的に出会うことによって、新たな自分とも出会えているかのような感覚。絶えず今を生きなおす(草は生きて毎日伸びる、その新鮮な雨に濡れた草との対話)。うまく言えないが私は絶えず移ろう。そのような不確かな私という存在と長きにわたって交遊を続けてくださっている人たちへの有りがたさへの感謝は例えようもなく、これからは交遊録も折々五十鈴川だよりに刻んでおきたい。

さて、話は変わる。2021年に出された立花隆さんのご本【立花隆 最後に伝えたいこと】 大江健三郎との対話と長崎大学の講演、中央公論新社を昨日読み終えた。私の本棚には立花隆さんのご本が10冊くらいある。折々該博な知見から蒙が拓かれるかのような読書体験をしてきた稀な作家の一人である。

立花隆さんは1940年生まれ、私より一回り年上である。この世代はとにかくすごい方が多い。お亡くなりになったのは3年前、2021年の4月である。この本は亡くなれた80日後ご遺族によって編まれた本である。立花隆という稀有な存在、作家のラストメッセージ、魂が込められたご本である。読み終えたばかりだが、五十鈴川だよりを読んでくださるかたには、是非とも手にしていただきたい、と願わずにはいられない。

このような好奇心と行動力と知的探求力、正直に身を賭して命を削って渾身の生き方を実践された存在に打たれた。解説を書かれているのが昭和史の大家保坂正康氏である。このちょっと長い解説が素晴らしい。じーんとくる。立花隆さんと保坂正康との間にこのような交遊があったのを初めて知った。本物同士の関係性の極致がある。慎んで冥福を祈ると共に、改めて氏のご本から、そして先人たちから学ばねばならないとのおもいが五十鈴川だよりを打たせる。

2024-06-28

マイスターに聞け、を終えシェイクスピア作品のリーディングカンパニーを夢見る朝。

 故郷から戻って昨日まで労働し今月は終わり、今日から3連休である。雨音を聴きながら打っている。いきなりだが18才から世の中に飛び出し、何とか今も身すぎ世すぎという感じで、とにかく働きながら、カッコつければ淡い夢のような世界を追い続けている自分がいる。

大地の恵み初収穫

文化的なことに、ややもすると片寄っている人、というような印象を持たれているかたがいるかもしれないが、私のなかでは分かちがたく、生活者としてまずは足場を固める自分と、シェイクスピア作品を音読したり、時に企画をしたりする自分は同根である。

話は変わるが、今年も来週から7月である。あっという間の半年間であったという陳腐な言葉しか浮かばないが、自分のなかでは、新しい有意義な時間が切れ間なく続き積み重なってすぎたという実感がある。そのことは折々五十鈴川だよりに打っている。(継続して打つことの大切さ)

マルセを生きるを企画したことで、梨花さんとも関係性が深まり、またひとつ学べた気がしている。そして3月23日から6月23日まで不定期ではあったが、シェイクスピア作品の音読リーディングで、情熱のある参加者と出会えたこと、がやはり私にとってもっとも大きい出来事である。そのことに関してのいちいちは、とても五十鈴川だよりでは打てない。ただ未知の、あたらしい人たちとの一期一会の出会いリーディングが新鮮で楽しかったこと、がまたもや新しい気づき展開を産み出している。

シェイクスピア作品のリーディング音読、マイスターに聞けと言う、私の意を汲んだN氏の企画は、当初5回の予定とフライヤーには記されていたのだが、あにはからんや、その倍近いレッスンが貴重な参加者と私との間で展開され、6月23日、一応のピリオドが打たれた。だが、終わったわけではない。

いったん終止符の後、新たな展開での再開を私はやりたい。私のレッスンを継続して希望する参加者がいるので、名前も含めN氏や参加者と共に再出発することに決めたのである。コロナ渦で遊声塾を閉塾して後4年、よもやまさかこのような展開が、古稀をすぎてのわが人生に起きるとは想ってもみなかったので、私としては、臆面もなくあえて打つが、どこかシェイクスピアのお導きとでも言うしかないほどの、身に余る嬉しさにおそわれるのである。

重ねて臆面もなく打つ、そのお導きはきっと61歳から68歳まで、(ときに参加者が少なくて二人きりの時も)コロナウイルスがやってくるまで継続していたからこそだと。繰り返し私はうち綴っている。高校生でフランコ・ゼフィレリのフィルムを観たことが私の人生を変え、あれから半世紀はとうにすぎたのに、今もまたW・シェイクスピアの豊穣な作品群は老いゆく私の人生の羅針盤として行く手を照らす。そのことの有りがたさ、感謝、日本語のシェイクスピア作品群に出会えたことの喜びは筆舌に尽くしがたい。

ゼフィレリのロミオとジュリエットを半世紀ぶりに、リーディング参加者と共に天神山で見たのだが、今見ても私は感動したし、当時生まれていなかった参加者たちも感じ入る感性を持ち合わせていた。打っていると次々打ちたくなるのではしょるが、今回マイスターに聞けに参加して継続レッスンを希望されるかたは、いずれも個性的で熱心である。自分を変えようとしている。私のしつこいレッスンにも食らいついてくる。そこに希望がある。だから私はやりたい、のだ。

ある日突然レッスンが、声が出なくなっても悔いはない。だが声が出せる間は参加者と共に、あの劇詩人シェイクスピアが紡ぎだした魔法のような言葉言葉言葉の素晴らしさを共有し、挑戦したい。奇跡的とも言える、たまたま出会えた魅力的な人たちと日本語を味わいリーディング、面白可笑しくプレイしたいのである。

2024-06-23

およそ一年ぶりわが故郷に3日間帰省し、兄と二人旅、1泊2日旧き友鹿児島の隼人市に住む京ちゃんを訪ねました、そして想う。

 ずいぶん帰省していなかった。今年は年明けから何かと忙しく、余裕がなかったのだが、この機をのがすと、という思いが私を故郷へと向かわせた。水曜日朝6時に家を出て午後0時25分に日向市駅に着いた。いつも通り兄が迎えに来ていた。

登紀子さんの手料理


お昼は家で義理の姉が懐かしい冷や汁でもてなしてくれた。その日の夜は兄夫婦と姉夫婦がお寿司屋に連れてってくれ私をもてなしてくれた。72歳の私が一番若く、兄は78才、義理の姉は74歳、姉は80歳、義兄は83歳、5人での会食、みんなそれぞれに歳を重ねたとはいえ、まだそれぞれに気を回しながら、ジョークを飛ばし合いながら、お互いに元気に再会夕食会をすることができたことの幸せをきちんと五十鈴川だよりに打っておく。

翌日朝一番朝食前にお墓参りをいつものように済ます。義理の姉の美味しい朝食を済ませ私と兄は雨の中、鹿児島県の隼人市に単身赴任している旧きわが友人京ちゃん(詳細は省くが知り合って37年ほどになる)を訪ねるべく8時20分に兄の運転で家を出た。おおよそ170キロの距離、高速を避けて一般道を走った。

ここでちょっと兄この事に触れておく、兄は今から2年8か月前腎臓癌を宣告された。それもステージ4である。だが治療と薬の相性が良かったのと、若い頃野球で鍛えた肉体のお陰か、今もってあちらこちら運転して行けるほどの体力をキープしているのには、ある種の感動を覚える。

兄、京ちゃんと岩戸温泉で。

国道10号線をのんびり走って都城へ。途中私が中学校を3年間通った四家という田舎町を行きも帰りも通過したが、夢のあととでもいうほかはないほどに寂れはてていた。(儚いというほかの言葉を思い付かない)都城で道の駅とは思えないほどのモダンなNICOLEという名の道の駅でどしゃ降りのなか見学がてら一休み、(一個450円の名物牛肉メンチできたてをどんなものかと兄と頬張った)お昼には早かったのでもう少し走って都城の市内のとあるラーメン屋さんでシンプルな醤油ラーメンでお昼をとった。とにかくこの日は一日雨雨雨、傘をさしてもかなり濡れた。

午後2時過ぎ、ちょっとナビの住所が違って京ちゃんとすんなり会えるのに手間取ったが、仕事中の京ちゃんが、てきぱきと住んでいるマンションに案内してくれ仕事を終えるまで横になって休ませてもらった。我々二人が泊まってもゆったりできる広さのマンション。京ちゃんは5時前に仕事から戻り、京ちゃんの車で10分のところにあるお気に入りの岩戸温泉へ。

ひなびた由緒ある温泉、何と400円の湯浴び料、ほどよい大きさでちょっと熱めの湯がぬるぬるしていて肌触りが抜群、すっかり気に入った。小さな水風呂もあり、外は温めの露天風呂、人生で初めてザアザアぶりのなか天井がなかったので、風情満点の隼人の旅情を兄貴、京ちゃんの3人で楽しんだ。兄はこの温泉で一気に京ちゃんと打ち解けあったようだった。やはり裸のお付き合いが一番なのである。

以後事実を簡単に記録として綴っておく。戻ってマンションから歩いて1分のところにある午後6時開店の居酒屋へ。本当に久方の再会なので私も少し飲み、何と兄貴も少し飲んだ。京ちゃんゆきつけのお店で一品一品すべて美味しくいただいた。お腹が満たされよほど気分が良かったのか、兄がどしゃ降りのなか、カラオケに行きたいと言い出し、気持ちの優しい京ちゃんが、癌に侵されている兄を気遣い自分は絶対に歌わないのにカラオケスナック、マドンナに代行で移動。よもやまさかカラオケにゆくことになろうとは。ステージ4の兄は8年ぶりくらいにカラオケを歌ったとのことで、ご満悦。癌の宣告から2年8ヶ月、憧れのハワイ航路から始まり、故郷まで10曲くらい兄は歌った。私も4曲くらい。(カラオケは苦手なのだが)兄の嬉しそうな顔を私は決して忘れないだろう。

日向灘を望む若山牧水の歌碑

あっという間に愉しい時間は過ぎ去り、京ちゃんは雨のなか訪ねていった私と兄の二人を大歓待してくれた、このような友にわが人生で出会えたこと、全く利害関係なし、伏して感謝を伝えきちんと五十鈴川だよりに記しておく。

翌日、雨のなか京ちゃんが仕事に出掛けたあと、(年内の再会を誓った)我々も帰路に着いたが、雨は都城に入るとすっかり止みあっというまに快晴となった。帰りはちょっとルートを変え綾、佐土原、高鍋から日向灘を望みながらのドライブ、途中お蕎麦でお昼を済ませ午後2時に兄の家に着いた。往復兄が一人で運転した。すごいと言う他はない。よもやの思い付き京ちゃんを訪ねての旅。マルセを生きるを終えて、今年前半のいい意味でのあれやこれやの疲れが、すっかり気分一新できた。

その日最後の夕食前、姉夫婦を訪ね一時間ほど歓談した。もう毎回一期一会のお茶会歓談。私は義理の兄の前で姉をハグした。姉は私の思わぬ行動にきゃあきゃあと騒いで照れていたが嬉しそうであった。私としては無事に傘寿を迎えた姉を祝福したかったのである。そして私は決めたのである。生きている間は帰省の度に姉をハグすることに。

歳を重ねないと感じることが叶わぬ世界が厳然とあると言うことの気付きが、より深まったことの喜びが私に五十鈴川だよりを打たせる。それがどのような気付きであるのかは、おいおい実践しながら老いてゆきたいのである。賑やかなことや派手なことにはいっさい心が動かなくなりつつある。シンプルこのうえなく心の赴くままに、今回は実りのおおい帰省旅となった。(昨日朝7時46分に日向を発ち午後2時我が家に着いた)

PS 義理の姉の登紀子さんにはまたもや旨い家庭料理を4食いただきました。感謝します。

2024-06-18

6月16日、神楽民族伝承館で実現した【マルセを生きる】公演にお越しくださいましたお客様、そしてスタッフの皆様、心よりありがとうございました。

 朝のラジオで高知県では雨の量で水かさが増していると報じていた。私の好きな労働は雨がやんだら出掛けることにして、それまでは、五十鈴川だよりをこころおきなく打てる。

我が家のリビングで。

さて、一昨日マルセを生きるという、私にとっては生涯の意外な記憶の出来事として記憶に残る企画を無事に終える事ができた。40才から企画者として岡山で人生再出発して、61歳で中世夢が原を持するまで、企画者としての自分はほぼ完全燃焼した。

その後、青春時代やり残したという、悔いを残していたシェイクスピア作品を、音読する塾を61才の春から始め、2020年、コロナ渦でやむ無く塾を閉じ、よもやまさか70才で再び企画をすることになろうとは思いもしなかった。コロナも落ち着き、今年は日々の労働とシェイクスピア作品の音読、松岡和子翻訳での新しい再出発リーディングに専念する予定であった。だが私の人生、そうはとんやがおろさない。

詳細は省くが、昨年末マルセを生きるという本が、梨花さんから送られてきたことで企画者の血が騒いだのである。結果、3月23日から労働、音読、マルセを生きるのフライやーができてから一昨日の公演を終えるまで、抱えたものにしかわからないあれやこれやの老いの精神的な一人旅が始まり、ようやく無事に公演が一昨日実現したのである。

今、小さな規模の公演を終えて想うことのあれやこれやを、一度に記すことはかなわないが、私にとっては大きな出来事の企画をなんとか成し得た喜びと充実感が、老いのみをいまだ包んでいるのである。一言で言えば責任が果たせたことの安堵感、あの日の現場に居合わせた者のみが生で共有できた、言葉では表せない体感空気感、贅沢である。

あのような一期一会の、集えた者のみが醸し出すえもいわれぬ雰囲気、思い付くこと、企画することの勇気と小さくとも高貴な達成感が一庶民老人企画者のギャランティである。それにしても、神楽民族伝承館で実現したことが、かえすがえすもやはりよかった。(中世夢が原のお陰で私は企画者になれたのである。そのことへの感謝の思いはつきない)

今私は一文を打ちながら、改めて企画をなぜするのか、自分に問うている。明らかに40代、50代、そして60代の頃とは異なる自分が存在している。今、【マルセをいきる】を老人直感で企画できたのはきっと、マルセ太郎という矜持志を貫いた不屈の芸能者の魂が幾ばくか私の中にも受け継がれているから(と自負する)だろう。そして梨花さんにマルセ太郎のDNAが見事に花開き受け継がれていることを、この眼で確認した。これからの梨花さんの未来が楽しみである。

PS 当日足を運んでくださった方たちが、実にユニークで、少ない観客なのだが老若男女分けても気骨のあるお客様、(かってマルセ太郎を観たことがある人たち)と、全く初めて知ることになった若い人たちが半々、そのほどのよさが希望である。老人はいまだ死なず、だがやがては去る、希望は若いかたたちに受け継がれる。企画することはバトンタッチである。最後にこの春からシェイクスピア音読リーディングに参加している、30代のマルセ太郎を知らない世代の男女が受け付けから片付けまでボランティアしてくれ(女性のYさんは素敵な感想を私にメールで送ってくれました)たこと、そして今ともに汗を流して働いているK氏ご夫妻が裏方として私を支えてくださったこと、そして我妻に伏して感謝をお伝えします。





2024-06-15

いよいよ明日、マルセを生きるの公演前日の朝に想う、五十鈴川だより。

 老いのバイト、フルタイムではないとはいえ、好きな労働とはいえ、やはり人間暑さは堪える。そのような暑さがこの連日続いている。この夏が来ればこの高齢者労働もまる6年を迎える。あと何年やれるかは神のみぞ知るというところだが、企画をする間、音読がやれる気力体力がある間は継続したい。

13日朝日新聞岡山版

ところで、人生を振り替えるには早いも遅いもないが、先日森岡毅さんのビジネス書(実はこのかたの本しか読んでいない、2冊目)を初めて読んで思ったことは、実に自分は狭い分野の読書しかしてこなかったのだということを思い知ったのだが、だからといってその事を、全く後悔はしていない。ただこれからはもっと自由自在に限られた生活時間のなかで、精神が気持ちよくなる人が書いた本に巡りあいたい。考え方が異なる方の本も。そういう意味で今年は素晴らしい本に次々と巡り合えている。

高齢者になり、時間がかかったとはいえ、何かのお導きで出会える本には出会えるし、出会える人には出会える。18才から出会えた人、出会えた本、ささやかなれど未知なる国々への旅、主にこの3つの螺旋状の時間の過ごし方で現在の自分は存在しているという認識があるのでいまのところ、我が人生に悔いはないといったところである。

街中で見つけたユリの花


さて、話はいきなり変わるが、明日はマルセを生きるの公演本番である。チケットの売れ行きは芳しくない。が私の心は、平静である。70才で企画者として復活してからは、入場者の多い少ないという企画は、とうの昔に卒業したからである。今現在40名程度、私が手売りしたり予約が来ている。もうそれだけで私はどこか満たされているのである。よもやまさかではあるが、当日もう10名のかたがどこからともなく来てくだされば、もうどこかサンショウウオ的隠居企画者としては言うこと無しである。

私は66才からのバイト先で、これまでの人生では出会ったことがないようなタイプの人生の先輩方や同輩と日々汗を流しているのだが、このかたたちのほとんどは私がこれまで企画してきたものには無縁の人生を歩んでこられたかたたちである。

今回の企画で私が一番嬉しいのは、中世夢が原に行ったこともないし、もちろんマルセ太郎も全く知らない人たち、日々汗をかく仲間、そこで出会った方々が(6名)来てくださることである。(そのうち密に共に働いているK氏はアンケートを印刷したり当日ボランティアもしてくださる)

それともうひとつ嬉しいことは、シェイクスピアの音読リーディングに参加してくれている、言わば生徒さんが3名来てくださり、一人は当日ボランティアもしてくださる。もう一人の女性のかたは、当日アクセスの悪い夢が原まで一人の高齢女性をピックアップして連れてきてくださる。

今私が手売りしている半分は、この5年間に出会えたまれな人たちである。その方たちがマルセ太郎を知ってくださる。その事だけで私はどこか満たされるのである。そして想うのである。なぜ高齢者になってまで企画をするのかは自分でもよくはわからないが、手の届く範囲での日々の生活者、とくに私とご縁があった方々が愉しんでくれるような企画がささやかに打てたら、これ以上の贅沢はないのである。


2024-06-09

ラジオ深夜便、6月9日、朝4時からの明日への言葉、高村ようたろう先生のお話を聴いて想う。

夜明けが早くなるのと同時に私自身の起床時間もやはり早くなる。早寝早起きはいまに始まったことではないにもせよ、この季節はいつにもまして早く目が覚める。今朝は午前4時前には目覚めたのでいつものように、ラジオ深夜便で午前4時5分からの明日への言葉を聴く。
音読しながら日本語を学びたい


何度か打っているが、早起きの私は特に古稀を過ぎてからこのコーナーを、時おり楽しみに拝聴するようになっている。特に今朝の高村ようたろう(字がわからない)先生83才のお話(老いの失敗学という本を出された)は含蓄に富、なるほどなるほどと、老いゆく我が身の毎年実感するそれぞれを、ふむふむなるほどと、感心しきりに拝聴し、こうやって五十鈴川だよりに打ちたくなるほどに感心感じ入った。

東大の工学の先生であり、失敗学という学問を創られるほどの大家のお話を、床で静かに耳を傾けたのだがいちいちうなずけることばかりで、そのいまも頭に残るいちいちを記しておくことは叶わないが、放物線状に肉体がピークから老いてゆく、あらゆる肉体の諸器官が緩やかに機能しなくなってゆく老いてゆくという、当たり前のことを、明瞭に分かりやすい言葉でしっかりと伝えてくださり、私は個人的に大いに勇気付けられたのである。

記憶力の低下を始め、つまずく、転ぶ、反射神経の衰え等、自分という存在がこれまであたかも普通にできてきたことが、やがては確実にできなくなるという事実に、気の小さい私などややもすると気が塞ぎがちになるやも知れぬ、のだが先生は、齢83歳であられる。ラジオだからお姿は見えないが、語り口が爽やか、生き生きしていて若さが伝わる。そして論理的で実に説得力がある。

生きている間にこういう先生に学びたかったと、地団駄を踏みたくもなるが、三文の徳早起きのお陰で間接的に先生を知りえたのだからよしとしよう。自力で本は読めるのだから。いまをこそ前向きに。話を戻す。80歳を過ぎ運転が大好きな先生は、家族から免許の返納を迫られる。先生は自分が学び、いまも研究する失敗学を摂理として受け入れ、運転できる、したい自分を押さえ、免許を返納する。

ここに至るあまりにも人間的な矛盾を抱えた顛末の語り口が、大いに人間性を感じさせ、私は愉快になり爽やかに起床し、休日の朝のルーティングをこなし、五十鈴川だよりを打っているのである。

先生は工学、理系のかたなのだが、最近スペインのマドリッドに老いの失敗学の講演にゆかれ、プラド美術館でピカソのゲルニカを視て、息苦しくなるほどに感動した体験をお話しされた。自分は芸術や文化的なことにあまり関心を持たない人生時間を過ごしてきたのに、なぜか老いのみにこれまで味わったことがないような感動を知る自分を突然発見する。そしておもうのだ。数限りない失敗を重ねてきたからこそ、ある日突然これまで使わなかった脳のどこかが開いたのではではないかと、思い至るのである。

ちょっと舌足らずでうまく打てないが、先生のお話から私が勝手に都合よくおもうに、あらゆる思い込みが人を不幸にしたり、不自由を囲うことになるのではないかと。先生は運転免許を返納してから、当初不自由を感じたが、やがて運転するということに関しては全く考えなくなり、手放したことによって、老いの新しい世界を見つけられているとおっしゃっている。個人的なことで恐縮の限りだが、古稀を過ぎていよいよ家庭菜園が面白くなってきた。老いゆくなか全く関心の及ばなかった世界への扉が開く。少しでも苦手を克服、丁寧に一日を過ごしたい。私の老いは未知数である。


2024-06-08

いよいよ6月16日【マルセを生きる】公演の一週間前の朝に想う。

 今年は、とくぎりをつけるのとはちょっと違うのであるが、次々と予期せぬ、どちらかと言えば正直、若い頃であればなんてことはないのに、実年齢を考えるとちょっと無理がたたるような日々が続いている。だがその事を悲観的ではなく、どこか嬉しい出来事が続いているといったあんばいで日々を過ごしていたら、あっという間にそろそろ梅雨入りの時候、そしていよいよマルセを生きるの公演が目前に迫ってきた。

梨花さんといろんな話がしたい

それにしても意外なな出来事が連続しなかったら、きっとマルセを生きるという中世夢が原での公演は実現しなかっただろうし、よもやまさか、退職後再び中世夢が原の神楽民俗伝承館でマルセ太郎の娘である梨花さんのトークパフォーマンスを企画することはなかっただろう。

昨年暮れ、マルセを生きるという本が梨花さんから送られて来ることがなかったら、あえて老人の身をわきまえない、ちょっと無謀な企画は生まれなかったに違いない。中世夢が原で22年間がむしゃらに企画してきたのでよくわかるのだが、企画を実現するのには、実に煩雑な手続きが付きまとう、その事を億劫がるようになったら企画は実現しない。

いまも続く泥沼膠着戦争がウクライナで大々的に報道され、その年70才でウクライナの音楽家を企画、昨年は沖縄の音楽家、今年はシェイクスピアの音読リーディングだけの予定であったのだが、今年一月、神戸で続いている文忌という催しに昨年に続いて2度参加し、そのときに打ち上げで梨花さん、お嬢さん(文句なしに素敵なお嬢さんだった)弁護士をされているお兄さん(このかたがまたとつとつと多様な視点で物語る梨花さんとは異なる魅力を持つ)らと語らうひとときがあった。

その席で私の年齢も省みず、マルセを生きるという本の出版を祝う、小さな企画をやりたくなったのである。あれから5ヶ月が瞬く間に過ぎたというのが正直なところである。生活し、音読し、企画もする、そのすべてにこの年齢で挑むということの困難さを時におもう。

だがしかし、あえてそれでもなおやりたいという何か言葉にはしにくいとらえどころのない熱情があるからこそ実現している。労働も音読も企画も(まるごと私の生活)薄氷を踏むすれすれを生きている、生きていられるいまをきっとどこかで苦楽しながら愉しんでいるのだ。(とおもう)

一人でも理解者があれば、単細胞の私はすべてのことに自分が責任を持てるのであれば、自然に正直にいまやれる情熱を傾けたい。ただそれだけである。神楽民俗伝承館で父娘2代の芸が実現するなどとは思いもしなかった。当日どれ程の観客が来てくれるのか、おそらく来場者の数は少ないとおもうが、企画者の端くれとしておもうことは、入場者の多い少ないではなく今自分が背負える、責任がとれる企画をやりたいし今しか出来ないのだ。

梨花さんとの出会いで、かって私を育ててくれた場と空間、中世夢が原で再び里帰りのような企画ができるとは、オーバーではなく私には夢の出来事なのである。そして今回の企画は、あらためて、企画することの原点感覚を私に喚びさます。いまは言葉にし得ないが、そういう感覚が老いのみに芽生えたのは、きっと5月24日、岡真理先生の魂の講演会を、リアルタイムで接したからに他ならない。

岡真理先生との出会いで、私はこの年で初めてアラブの文学に触れている。その事で老いのみに微かな変容が起こっている。またもや無知、未知との出合いである。若い頃のようにはゆかないが老いゆく時間のなか、ゆっくり雑草をしつこく抜いてゆくように学ぶ勇気を持たないと、まずい、あまりにまずいと自戒する。やるだけのことをやって6月16日を迎えたい。