昨日は美星町私が働いていた中世夢が原まで6月16日のマルセをいきるのフライヤーをもって、古い仲間、私が40才から61才まで共に働き、私が職を辞してからも関係性が途切れずにいる方々と、たまさかの貴重なお話をすることができて、実に有意義な休日になった。そして改めて思うことがあり、これからは元気な間は大変お世話になった古い仲間と会うためだけに夢が原に行かねば、と今私は思っている。
車で家を出たのが9時前、10時半に夢が原に着いた。美星をお昼前に後にし、矢掛、真備、総社、岡山と昔私がポスター配布に動いたエリア(カフェ・レコードショップ、等チラシをおいてくれそうなお店に)に配布し、家に戻ったのが、午後5時ジャスト。昼食抜きで動いたため、妻がすぐに普段よりもずっと早く夕飯を整えてくれ、すぐに早めの長い夕飯をとった。
古希からささやかに企画を再開してから3年目の春を迎えているが、企画をしなければ、まずよほどのことがない限り中世夢が原まで足を伸ばして動き回ることもないだろう。普段の生活圏以外を終日車で動き回るなんてことはまずない。その事におもいを馳せながら、元気に車が運転できなくなり、チラシ配布にゆく気力がなくなったら企画は諦めることにしようと思う。が、幸いなことにまだまだからだが動くことが確認できたので、とりあえず今年は企画が実現できることのありがたさを噛み締めている。
話を変える。今日はリーディング音読7回目の朝である。未知の人たちと出会っておおよそ2ヶ月、前回からロミオとジュリエットのリーディングに入り、今日が2回目、毎回4名から5名でのレッスンが実現できていることに、そこはかとなく老いゆくなかでの、下り坂で見つけた思わぬ時間の豊かさのような感覚が私に沸いてくる。
これは私が感じる感覚である。謙虚に私が一番嬉しいのは、草を抜いたり、企画をしたりしながら、いま日々の人生時間のなかで、やはり一番いきいきし面白いのがシェイクスピア作品群の音読リーディングである。だからこの2ヶ月五十鈴川だよりでもっとも打っているのがリーディング音読に関してなのだと思う。
無心に子供がお砂場遊びにうち興じるように素直に遊ぶ感覚で時を過ごす。全く自由自在に唯一の自分の体で遊ぶ。これを私は贅沢感覚と呼びたいほどだ。その感覚を共有して遊べる何人かの仲間がいれば、贅沢の極みという他はない。ガザを始め、もう打ちたくはないほどに世界は一面的で、核心停戦、終戦にはほど遠い惨状報道がきりもなく続く、人間の健全な良心を限りなく蝕み、他者の痛みを思いやる余裕の欠如は(そのなかに私も入っている)飽和かしているように思える。(どうすれば?学び考え続けることが一凡人のやれることである)
内向き、うつ向き、やがては鬱的なスパイラルの穴に落ちてしまいそうな空気感に襲われそうな時代状況のなか、シェイクスピア作品をリーディングしている時間は、絶対矛盾を生きつつ、絶対自由なひとときである。未だこの年でも、生きることへの困難な意味の問いかけを登場人物が私に突きつける。ハムレットが悩む永遠の問い、人間とはなにか。
難しいことには本能的に首を突っ込まないというのが私なのだが、そうもいっていられない思考停止閉塞感時代状況がヒタヒタと押し寄せてきている気がするのは私だけではあるまい。要はいかに生きるのか、生きないのか、だとしか言えない。シェイクスピア作品をリーディングしながら、未だ見えない世界を感知するために、私にとっていまもっとも必要なことは、シェイクスピア作品群をリーディングすることである。
PS アップした写真は差し上げたバラをフライヤーを創ってくれたN氏が家で生けたのを撮った写真です。はかなさ美しさが表現されている、とかってに想像しました。シェイクスピア作品も読み手、受けてによって、多様に感受することができる。それぞれの世代、それぞれの国のそれぞれの言語で、そしてその人の体で。
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