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2024-05-06

岡真理著、ガザとは何か を読んで想う、GW最後の朝の五十鈴川だより

 昨年10月7日から、パレスチナとイスラエルとの間での正視に耐えないガザでの戦争が続いている。その事に関して、一人の今を生きる日本の老人の一人として、心のうちに忸怩たる思いを抱えながら、どこかでのうのうと生きられている今の現状維持バイアス生活を、年齢を暫し忘れて、アクションを、何でもいいから、一歩踏み出す行動をやらないと、という思いがやまない。

無知を思い知らされる

無意識の発露、とでも呼ぶしかないなにか、押さえても押さえても、見て見ぬふり、無関心ということになってしまうこの今の生活を続けることに、忸怩たる名状しがたい後ろめたさのような感情に時おり襲われている。慎ましくも穏やかに生活できる自分の今の生活と、ガザ(戦争地域世界中に起きている)でのあまりにも異なる人間の生活。その事に目を向ける時が、私の生活に突然やって来た。その事が五十鈴川だよりを打たせる。

昨日禁酒会館で行われた走れメロスという舞台をみた。この舞台を観に出掛けたのは私のシェイクスピア作品のリーディングに参加している方がいたからである。見終えて奉還町にあるとあるカフェで一枚のチラシを見つけたのである。ガザとは何か パレスチナを知る緊急後援会、講演者は早稲田大学教授、岡真理とある。

数日前、私は大和書房から同じタイトルの岡真理さんの本を読んだばかりだったので、一気に私のなかで何かが動き始めた。岡山でこのような講演会を主催されるかたの声が聞きたくて、家に帰って取り急ぎお電話をしたところ、物腰が柔らかく対応がとても丁寧だったので、すぐに24日の講演会にゆくことにし、失礼を省みず、可能なら直接お目にかかりお話がしたいと伝えると、今日午後西大寺から近い赤磐市のノーポリス桜が丘生き生きセンターで催しをやるのでいらっしゃいませんかとのお誘いを受けたのである。ピーンという勘が働いたのでゆくことにした。

私は40才から美星町の中世夢が原で22年間企画者として働き、リタイア後はシェイクスピアのリーディングに今も情熱を傾けた日々を送っている一人の老人である。そして時おりフッと想うのだ、平和で穏やかなればこそ、リーディングもやれるし企画もできる。大切な家族があり、食べ物があり、寝るところがあり、好きなことに情熱が傾けられる、言わば人間らしい営みがおくれることのありがたさがしみるのである。。

話をガザとは何か に戻す。一読目から鱗とでもいうしかないほどの、パレスチナの歴史に関するあまりの無知を正直いやというほどおもい知らされた。そして知ろうとしないことの勇気のなさ恐ろしさを感じている。だが知らないということは恥ずかしいことではない、と自分に言い聞かせる。知らないことを、知ろうとする一歩踏み出す勇気を持たないことが、私は恥ずかしい。何事も気が熟すタイミングというものがあるように、私は思える。(対岸の火事という言葉があるが、それはきっと遠からずこちら側の世界にも及んでくる)

無意識の積み重ね、長い思考熟成期間がきっと何事に関してもその人なりの歩みがあってこそ、関心の扉も開くのだと思える。焦って何事かをなそうとしてもつまずくだけである。何事かの扉を開けようと一歩踏み出すのに年齢は関係ない。私はまだ何かに突き動かされる感覚を辛うじて生きている。だからささやかに企画もするし、シェイクスピア作品のリーディング音読にも挑戦している。(と思いたい)

辰年まれの私、今年は次から次へと思わぬ意外なことが起こっているように、一見おもえるが、ひょっするとやはり何かの積み重ねが、突然何かを押しやるように私を突き動かしているのではないかとも、考える。

ともあれ私が、ガザとは何か を読んで蒙を拓かれたように、五十鈴川だよりを読んでくださるかたには是非この本を手にしてほしい。そして想像力を全開にして、ガザで間断なく続く出来事におもいを馳せてほしい。ガザは天井のない監獄だと言われているが,岡先生はイスラム中世の神秘主義思想家のマンスール・アル ハッラージュの言葉を引用しておられる。

地獄とは、人々が苦しんでいるところのことではない。人が苦しんでいるのを誰も見ようとしないところのことだ、と。


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