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2024-03-17

来週土曜日、3月23日午後一時から吉備路文学館で開かれるシェイクスピアの【間違いの喜劇】の音読会を前に想う。

 来週土曜日にいよいよ吉備路文学館での音読会が始まる。1月13日に主催者であるN氏による素晴らしいフライヤーができて、あっというまに月日が流れた。シェイクスピア遊声塾をコロナによって閉じて以来、参加者を募り公の場でシェイクスピアの音読をするのは4年ぶりである。

中世夢が原から移植した水仙が根付いた

このような機会が再び与えられるとは、当人である私にも思いも及ばなかったというのが、正直な気持ちである。他力の風が吹いたのである。ただ自分の中では生きる日々の糧であるかのように、個人的な音読をわずかな時間ではあれ継続、持続していたお陰で、いつでも音読レッスンがやれる。(状態にはある)

長くなるので割愛するが、N氏との再会の出会いがなければ吉備路文学館でのリーディング音読はなかったであろう。61才を期して青春時代の学び直し、再び日本語によるシェイクスピア作品の音読に挑戦し、丸6年以上シェイクスピア遊声塾での経験があればこそ、今回の企画も生まれたのだと思う。

今私は72才を迎えたばかりである。高齢者になり明らかに肉体的には下り坂を自覚しているが、ありがたいことに情熱のほうはほとんど変わらず、経験したことのないコロナ渦のこの4年間の過ごし方で鍛えられ、新たな経験値、気付きの深まりがある。だからこそ、新しい気持ちでのリーディング音読に挑みたい自分がいるのだと思える。

過度なPRもせずに、知られていないシェイクスピア作品のリーディング音読に、参加者がいるのかはなはだもって不安ではあったのだが、Nさんのご尽力のお陰で未知の参加者が4名、私の友人が2名、計6名の参加者がエントリーされている。思った以上の参加者に正直驚いている。新聞記事にも取り上げられていないのに、遊声塾を立ち上げたときよりも参加者が多い、意外な嬉しい驚きである。3人も集まれば上出来くらいの気持ちでいたのだから。

心・技・体という言葉がある。技と体に関しては普通を自覚している。心は一応10年以上、日本語によるシェイクスピアの作品リーディング音読を持続してきたので充実の今を生きている自覚がある。またその事に対する自信のような厚顔無恥さ加減がなければ、とてもではないがこのような大胆なことは、気の小さい私にはやれないし、情熱が湧いてこない。

湧いてくるからこそやりたいのであり、わいてこなくなったら、あっさりと諦め他のことに情熱の矛先をむけると思う。だからといって過信しているわけではもうとうない。参加者がゼロであれば、きっと他の事をやって(音読は個人的に続けることに終始していると思う)いる。

初回は都合で参加できない方がいるのだが、現時点で6名の参加者があり、私の友人の一人は神奈川から参加する。(この事がいちばん私を驚かせ感動させる)晩年、心からやりたいことに情熱をそそげる生き方が出来ている方は幸せである、と思う。この丸3年、大きな手術以後、お金にはほとんど頼らず、ほぼやりたいことだけに情熱を注いで生きていられる今の生活を楽しんでいる自覚が私にはある。

そのような自覚がないと、とてもではないが臆面もなくこのようなことは五十鈴川だよりに打てない。清貧という言葉は苦手である。清濁を私は受け止めて生きたい。AI人工知能という言葉を聞かない日がないくらいだが、厳粛にこれからの有限なる時間をシェイクスピア作品を音読しながら、老いとはなにか、家族とはなにか、贅沢とはなにか、幸福とはなにか、命とはなにか、戦争とはなにか、豊かな人生とはなにか、つまるところ自分の人生とはなにかを、考え続けたい。(答えは不要である)

慎ましく、足るを知る高貴な心持ちを大切にとの教えは、いやというほど亡き父親から叩き込まれたものである。その教えは柔な私を折につけ、いわば逆境で奮い立たせるのである。このコロナの4年間、そして今も呪文のように忍耐という言葉を私は折りに呟く。

記憶に間違いがなければ、好奇心とは高貴心であるとはシェイクスピアの言葉である。リア王は全てをなくし、王から転落、無一文になり気づく。そして叫ぶ、神よ、忍耐を与えたまへと。

今回のリーディング音読、テキストはすべて筑摩文庫で翻訳者は松岡和子先生による。女性で全訳という偉業を初めて成し遂げたかたの翻訳日本語を、私もまっさらな気持ちで出会えた面々と学び、音読したい。

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