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2023-05-27

日が日に日に長くなる、沈むまでの間、時間を大切に生きる、五十鈴川だより。

 5月21日東京から戻り、22日から昨日まで、お休みしていた分、午後も2時かんほど働いたため、今日明日のお休みがいつにもましてありがたい。私は体を使う肉体労働が性に合っているので、働くこと自体は全く苦にはならない。

だが他にもやりたいことが色々あるので、その事に集中できるお休みがなんとも言えず嬉しいのである。18才から生きるがために、主に単純労働で生命を維持してきた事が大きく作用しているのだと思うが、ギリギリのところで生活者としていき、その事を自分なりに大切にしながら、なおかつ目的、目標、小さな夢を追い続ける、諦めながらも諦めない、といったいささかの矛盾を抱えて生きているので、繰り返すが嬉しいのである。

先程、早朝休日雨の日以外はかならずやっている運動公園でのルーティンを終え、五十鈴川だよりを打っている。我が家の玄関に咲き誇っていたつるバラは、私が東京にいた一週間で盛りを終えてしまったがまだ十分に楽しめる。つるバラ以外にも数種類のバラが咲いているし、妻の丹精しているいろんな花が咲き乱れる我が家は、やはり居心地がいい。

娘たちの住むマンションライフ、短期の滞在なら何てことないが、長期ともなるとやはり歳よりの私には無理である。幸い稲城も三鷹も近くに、里山や井の頭公園があるので、いくぶんかは耐えられるが。

話を変える。9日も留守にしていると新聞がたまる。週末ある程度まとめてきちんと新聞に芽を通すようにしているので、活字を読んだり書いたりするのが遅い私は、すべてに時間がかかる。しゃべるようにはゆかないのである。(大胆さと小心さが表裏である)

だがままよ、とどこか達観しながらいまを面白がる、(五十鈴川だよりは流れるようにしか流れない)面白がれるように心かけ生活している。日が落ちたらもう頭を使うことはほとんどしない。ひたすら心身を休める。日が登り沈むまでが私の一日なのである。

もうその事は、変えようもないし、変わらない。さて、私がM新聞を購読している一番の楽しみは、書評を読むことである。18才で世の中に出て、心から井の中の蛙を思い知らされた私のトラウマは、たぶん元気な間は消えることはない、と断言できる。そのトラウマ的なものを抱えながら面白がり愉しみ、この歳まで今も生きている(のだ)。

知的な旅の読書を止めてはいけない

言い換えれば、それをバネにして生きているといっても過言ではない。18才まで田舎ののんびりとした環境の中で望洋と生きてきて、(それは今となっては宝の時間であったのだ、そのかけがえのない記憶財産)世間という社会にあらゆる面で耕され、ようやっと体に遅咲きの知的向上心を蓄えてゆく喜びのようなものに目覚めつつなんとか、この年齢まで生きてきた(これた)私としては、この喜びを簡単に手放す訳にはゆかないのである。

花に水をやるように、自分にも知的な水をやらないと、枯れてしまうような恐れを感じるのである。この恐れの感じがある間は、まだなにがしかの花のようなものが己の内に見つけられるかもしれないという淡い幻想のようなものにしがみつくのである。

というわけで、五十鈴川だよりをうち終えたら、書評2週間分を読みそのあと福岡伸一先生の【ゆく川の流れは動的平衡】を読み、午後は畑の草取り、夕方は大好きな相撲を見る予定である、あ、それと30分の音読。日が落ちるまでの時間を大事に生きる、のだ。

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