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2023-04-30

多嘉良カナさんをを企画したことで、翌日、長男の兄に中世夢が原を案内することがかないました。

 起きたら雨は上がっていた。昨日は妻と二人で家の金柑を収穫したあと、バイト先の長いことほったらかしていた菜園場を耕し雑草を抜き、トマトを3本植えた。おおよそ2時間一人で体を動かし、久しぶりに鍬を使って土をならした。鍬がふるえなくなったらわずかな面積の菜園場であれたいぎになる。そういう意味では楽しく作業ができるいまが、楽しい。GWは土と戯れ、家で静かに本を読んですごそうかと考えている。

金柑を・ほうばる春が・すぎてゆく

話を変える。多嘉良カナさんを終えた翌日。わざわざ宮崎のわがふるさと門川から、多嘉良さんのわが企画に駆けつけて来てくれた兄の希望で、中世夢が原を案内した。着いたのが午前10時前、開園当初から共に働き、今は園長を勤めているMさんがわざわざ同行して、兄に園内を説明してくださった。

激変する時代の最中、私が中世夢が原を退職して後ほぼ10年、数少ないスタッフで園内の景観を守っているその事に、感じ入った。なにゆえに兄が中世夢が原を観に行きたいと突然言い出したのかは知るよしもないが、私としては兄が中世夢が原を訪ねたいといってくれたことがとても嬉しかった。

西大寺の家を出て美星町まで兄と二人でドライブ、(往復車中よく語らった)中世夢が原を散策した後、美星町で22年間イベントを企画していたときに、打ち上げなどのお接待で大変お世話になったNさん宅にお邪魔してお茶をいただき、私を採用してくださった初代園長Kさんにもご挨拶をして美星町をあとにした。

兄とは中世夢が原で記念撮影をした。私としてはつかの間ではあれ、よもやこのような晩年の兄との時間が中世夢が原で叶うとは予想だにしなかったので、ひとしおの感慨が押し寄せた。

帰路、矢掛の古い街並みで一休みし、昼食を二人で食べた(酢豚定食)。美味しくてワカメと卵のスープをおかわりした。午後3時すぎ岡山市内に戻り、古い市内の銭湯につかり、のんびりスチームサウナ、まだ時間があったのでわがバイト先を案内した。仲良しのT先輩、(兄とほぼ同じ年】を紹介した。

家に戻ったのが5時、少しやすんで、妻と3人で車で10分の近所のお気に入りの焼き肉やさんに行き夕飯。岡山で3人で夕飯なんて初めてである。多嘉良カナさんの能楽堂ホール公演を無事に終えたことを祝し、3人での再会を祝し、妻はノンアルコールビール、私と兄はビールで乾杯をした。滅多にないことなので、5種類のお肉をいただいた。美味しかった。

妻が兄を自然にもてなしてくれた。土曜日夜、私は多嘉良カナさんたちと夕飯をしていたのだが、兄と妻は二人で外食をしたそうである。火曜日午前9時過ぎの赤穂線で帰路につく兄を妻と二人で西大寺駅まで送っていった。夕刻、お礼のメールが兄からきた。義理の姉からも妻にメールがきた。記憶に残る兄との時間が過ごせた。企画して本当によかった。

2023-04-29

多嘉良カナさんの能楽堂ホール公演実現、私の直感は当たった、そして想う。

 多嘉良カナさんの能楽堂ホール公演を終えて、丸6日が過ぎた。観に来てくれた兄を火曜日に見送り、水曜日から肉体労働バイトに復帰し、昨日まで丸3日ただただ天のしたで体を動かした。ただ働きぐったり疲れて夜は眠った。

すでに今年の3分の一が過ぎようとしているが、成し遂げたというと自己肯定感、それからの解放感が余韻として、幸せな疲労感みたいなものが続いている。おそらく70才で多嘉良カナさんと出会い、企画がなしえたことは、今後を生きて行く上で、ずっと私のなかでひとつのエポックとなる、気がしている。

18才から、ふがいない自分を叱咤激励、時代の荒波に揉まれながら、虚弱体質のわが体を運び、目標を立て(貝谷芸術学院、英国自費留学、文学座養成所、シェイクスピアシアター、富良野塾など)それぞれの時間経験を積み、自分の弱点を見つめ、薄い皮をめくるかのように少しずつ鍛え自信を重ね、40才で中世夢がに採用され企画者になり、企画する度に学びながら、なんとか古稀までたどり着いて、出逢えたのが多嘉良カナさんではないかと、物語かしたくなる。

また新しい地平にたどり着けたかのような感覚がわが体に満ちている。この先も終わりのない未知の世界が、困難が待ち構えているのだろうと想うが、70代を生き抜いてゆく覚悟が、この企画をなしたことで深まっている。

野暮なことは打ちたくはない、勇気をもって困難な面白い道を見つけたいといまは思っている、とだけ打っておこう。

妻のいけた花

それほどまでに、あのご年齢での、多嘉良カナさんの今をいきる存在感の輝き、笑顔、謙虚さは、一朝一夕ではなし得ない修練の賜物の崇高さ満ちていて、私に生きるエネルギーを与える。

企画者の端くれとして、よくもまあ実現したものと、我が身の軽薄な大胆さに、どこかすくむおおもいもしていたのも事実である。

一旦やると決めたからにはやるだけなのである。これを実現すれば、きっと何かが我が身に微笑むとの直感は、臆面もなく打とう。当たったのである。




2023-04-25

いまだ、天神9能楽堂ホールに立っている多嘉良カナさんの美しさが眼底に焼き付いている、あめの朝に想う。

 無事に多嘉良カナさんの、能楽堂ホールでの一部謡と二部舞の公演が終わった。実現することができたことに関して、容易な言葉では言い表せないほどの多幸感が私の体をいまだ包んでいる。余韻がさめないのである。これほどのアーティストを偶さかの出会いで、能楽堂ホールで企画できたことの幸運に私はいまだうち震える。

それにしても、私の少ない語彙ではあの素晴らしい、練りにねられた一昨日のあの多嘉良カナさんの舞台の素晴らしさは到底伝えることはできない。

私は企画を思い付いた出会いの幸運に感謝せずにはいられない。それにしても想像を越えてあまりあるほどの多嘉良カナさんの芸の力に心底私は脱帽してしまった。

純粋一途の芸の道を全身全霊、宿命を生きてこられた、これまでの歩みががすべてステージ上で進行するにつれて顕になり、私の胸を撃ったのである。

雨に輝く玄関の春のはな

改めてすごい方に出会ってしまったのだと、再認識している。唯一無二の沖縄が生んだアーティストに出逢え、非力を自認する私がよくもまあ企画できたものだ、といまだ夢心地なのである。

舞、緩急自由自在、あのご年齢での、あのぜんしんのしなやかな動きの無駄のなさ、鍛練しえた者のみが発する自信と輝き、比類のない舞のうつくしさに心底感嘆した。芸の力のものすごさ、言葉のない舞の美、老いの花を初めて私は全身で体感した。身に余る企画が実現したこと、誉れである。

名誉とは、こういうことなのだと、カナさんの舞から美のオーラをあびたよろこびに、いまだよっている。

今回の企画で、多嘉良カナさんから浴びたものを繰り返し、今後反芻し愚直に謙虚に学んで老いの路傍の花を見つけたい。


2023-04-23

楽堂ホール天神9で、多嘉良カナさんのパフォーマンスが実現する朝に想う。

 昨日午後4時近く、多嘉良さんが無事に岡山後楽ホテルについた。わが兄もお昼過ぎついたので迎えに行き、共に昼食し我が家に一旦帰って、再び岡山へ。多嘉良さんと半年ぶりに再会した。

ステージで多嘉良さんをサポートするHさん、(とは初めてお会いし)そして多嘉良カナさんの世界をもっともよく理解し、共に異次元の世界を創造するアートdirector、(とでも呼ぶしか、いまは伝えられない)Tさんとも半年ぶりに再会した。

このかたの真の意味でのパトロン的な視野の広さを、昨夜の語らいで私は再認識した。その事の悦びもまたきちんと打っておきたい。私などにはない芸術家的な感性が多嘉良カナさんのそばにいる、その事の有り難さを昨夜はっきりと私は認識した、のだ。

今朝の我が家の撫子

その事を打てば今朝の五十鈴川だよりはもう他に打つことはないのだが、訳のわからぬ嬉しさが五十鈴川だよりを打たせる。今日多嘉良カナさんのステージを目の当たりにできる悦びが。

昨夜、ホテルの近くで再会夕食をしたのだが、何せ那覇でわずかな時間しかお会いしたことがないにもかかわらず、話が途切れることがなく、2時間が瞬く間にすぎた。今回、カナさん、Tさんの岡山公演のために創作された作品に籠められた、情熱のほとばしりがびんびん伝わってきて、それゆえに今日のステージが楽しみでならない、のだ。

昨日も書いたが、臆面もなく打とう。世阿弥言うところの老いの花、というのはいかなることを言っているのか、ぼんくらの私には判然とはわからない。

それでもそれが如何様な未知の世界であるのを知る、わかるためには、花を咲かせようとする愚直なまでの、歩みは鈍くよたよたではあっても、地道に歩くより他には、老いの花は見つからない、というのが今のところの私の想いである。結果、見つからなくなくても、咲かせようとするなにかがなにかを生むのかもと、想うのである。

そういう意味で、昨夜飲み食べ語り合うなかで、私の胸を去来したのは、無謀とも思える企画を思い付いて本当によかったとの念である。

今日は午前9時杉から天神9でリハーサルがあり、11時にはボランティアスタッフも集合する。会場作りや受け付け作業を済ませ、お客様を迎える。午後3時半には公演が終わる。

本番当日のあさ、五十鈴川だよりを打っている場合ではないのだが、なんともよい天気に恵まれて、多嘉良カナさんの公演が実現することへの悦びをきちんとうっておきたい。


2023-04-22

多嘉良カナカナさんが岡山にやって来る、春の朝に想う。

 今日の午後多嘉良カナさんが(スタッフ含め3名)岡山にやって来る。2月からほぼ今日まで、心の片隅に明日の多嘉良カナさんの公演のことがあった。

時代とのずれを自覚する企画者ではあるが、私なりにやれることはやったという、自己肯定感がある。

抽象的で唯我独尊的な企画が(企画が多岐にわたっていて節操がない)私には多い。世にあまねく知られていなくても、まばゆいほどの存在感で私を圧倒する多嘉良カナさん、がやって来る。この悦びを説明するのは、野暮である。実現すればいいのである。

チラシに書いた拙文は抽象的でわかりにくいかもしれないが、すーっと書いた一文に私なりのわがままな思いは込められている。

40才で企画者として出発した私である。自己弁護するわけではないのだが、誤解を恐れずに(されてもまったく構わない)言えば、チラシに書いたのではあるが、補足すると、私が企画を決断するときに、一番自分に問うのは実現すること、そして決断したら責任をとることである。明日の本番が無事に終わるまでは、企画者はほっとできない。

だが、一応ここまでこぎ着けたことに、正直ほっとはしている。仕事ではなく、今現在の私の心が揺さぶられたアーティストを企画しているだけなのである。そのようなことがわが人生で許され、明日実現するのだから、私の老いつつある血が未だ騒ぐのもむべなるかなである。これこそが生きている証しである。

カナさんのために妻がいけた花

私の場合、ワクワクしなかったら企画は成立しない。それは若い頃とはことなる地に足がついたワクワク感である。私は年寄りミーハーなのである。企画は理屈ではない。(これ以上は野暮だから打たない)

そういう意味で非常に贅沢な個人的な企画が、たまたま2年連続して能楽堂ホールで実現するなどとはまったく思いもしなかった。真実、人生先のことはわからない。そのことがしみてわかる、未来は自分の足で拓いてゆくことここそが面白いのである。

やがては歩けなくなる。だが今は歩ける。その事を刻む。それがわたしの企画である。

多嘉良カナさんを、天神9能楽堂ホールで企画できるだけで、眠っていた老いの花が咲くように思え、自己肯定的に嬉しいのである。

後は、今回の企画を(家族を含め)応援支援してくださるかたがた、そして当日足を運んでくださる方々がよろこんでよろこんでくだされば私としては企画者冥利という他はない。

2023-04-15

腎臓ガンにおかされている兄が、多嘉良カナさん、私の企画にやって来る。そして想う雨の朝。

 いよいよ4月23日まであと一週間となった。当日の受け付けや会場のボランティアしてくださるかたの役割分担、当日のリハーサルの流れ、等などを今日と明日できちんと決めれば、あとは一人でも多くのかたが足を運んでくださるのを待つばかりである。今のところ私と妻のほかに、8名のかたがボランティアしてくださることになっている。本当にありがたいことだと思っている。

妻が育てた雨に濡れるウララ

話は変わるが、先日富良野塾で私の後輩である今は茨城県のつくば市に住む0氏から、卒塾後37年ぶり、思いもかけぬ長いお便りをいただいた。それは私の現在、近況を知らせるために、一文と多嘉良カナさんのチラシを送ったのがきっかけであったのだが、よもやまさか、あんなにも心のこもった便りが届くなどとは思いもしなかったので、驚くと同時に感動したのである。

その事があって、多嘉良カナさんを企画しなかった、このようなお便りをいただくこともなかったであろうし、古稀を過ぎて尚、新たな出会いや、再会や、旧交を暖めるという人生の慈味とでも言うしかない、この嬉しさの感覚は企画したからこそもたらされたのである。

それと、なんといっても嬉しいのは長男の兄が、ふるさとから観に来てくれることである。兄は私よりも6歳上だから、今年77歳になる。生まれたのは今の北朝鮮、平壌の隣の新義州、若かった両親と3才の姉と4人で引き揚げてきた。(これた)5人姉兄弟、私を含めた3人は戦後生まれである。人はみな生まれ落ちた大地、環境でいきる。厳しい父親優しい母親(本当に信じられないくらい役割分担がはっきりしていた)のもとで我々5人は、昭和39年まで共に過ごした。今となっては貧しくも記憶の宝がつまった幼少期を、わが姉兄弟揃って過ごすことができたことのありがたさを、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

姉兄次兄とは父親の転勤のために、小学校6年から別々の人生時間を過ごすことが多く、私が社会に出てからはほとんど別々の人生時間を生きてきたがために、その後共通の話題を持つことが少なくなっていった。

だが長兄とは私が高校時代、親父に反抗して夏休みヒッチハイクで宮崎から東京に行き、当時大学生であった三軒茶屋の兄の下宿を突然訪ねたときのことなど、(あのときの驚いた兄の顔が忘れられない)今となっては宝の思い出がよみがえるのである。

あれから幾年月、兄も私もその後の人生を乗り越え、子育てを終え、孫にも恵まれ、この10数年のあいだ、年に数回帰省する度に兄の家にお世話になり、義理の姉の手料理を毎回美味しくいただきながら、兄との関係性もいい感じで推移していた矢先、兄は腎臓ガンにおかされたのである。それもステージ4である。

だが兄は宣告から1年半、生き延びている。そしてその兄が多嘉良カナさんの、私の企画に来るという、初めてである。人が善く優しい人に好かれる兄である。男兄弟ケンカもずいぶんしたが、晩年、お互いの家族がおだやかに生活でき、この数十年はそれぞれの子供の結婚式にも参加し、よき関係性を持続している。

その兄が、病を抱えながら弟の企画に駆けつける。兄なりに戦後を生き、兄弟にしか感知しえない万感がある。昨日兄から手紙が届いた。40才、私にとって人生の起死回生の職場となった中世夢が原にいってみたいと綴られていた。多嘉良カナさんを終えた翌日、私は兄に中世夢が原を案内する。

2023-04-13

RSKの天神9K部長が、チケットをデジタル販売するために、一気に動いてくださることになりました。感謝します。

 木の芽時は精神がなかなか穏やかにならない季節だと言われる。激変する自然界のオーラをわが体も浴びて、冬の体から春の体へと移行しつつあるのだと想う。そしてあの冬の寒さもあっという間に忘れて、季節に順応してしまうのだろう。

忘れるから生きてゆけるのだし、また語弊を恐れずに打てば、忘れないと生きて行けない。だが、いささか矛盾するが、絶対に忘れられないことが在るからこそ、そこにしがみついて、記憶の淵に沈んだ思いを、繰り返し再想像、あるいは再物語化して、現実を生きてゆくバネを私などは養っているのかもしれない。

さて、いよいよ4月23日まであと10日となった。チケットの動きは友人知人関係を除けば、目立った反応は今のところ静かであるものの、ポツリポツリ遠方からお電話がある。多嘉良カナさんのファンの方である。

わたしの心は穏やかである。自分なりにやれることはやったという、どこか潔い諦めにもにた自己満足感覚が体のなかにあるし、こういう熱い多嘉良カナファンが足を能楽堂ホールに来てくださる。企画者冥利である。

企画者として多くのかたに来ていただきたいのは当たり前だが、考えると、あまねく知られていないアーティストである多嘉良カナさんだが、これだけのチケットが、私の友人知人が多いとはいえ岡山で動いていることに、私としてはどこかで安堵している、のだ。昨日も広島からゆきたいというお電話をいただいた。届く人には届き足を運んでくださるのである。

仕事として企画しているのではなく、まったくの楽しみとして企画が、岡山の中心地能楽堂ホールで実現するというただ一点でどこか満足なのである。道楽という言葉はどこかあまりいいイメージを持たないように思えるが、春、能楽堂ホールで昨年に続いて企画することができるなどということは考えもしなかったが、まさに古稀を迎え2年連続で能楽堂ホールでの企画が実現するとは。

本当に人生は何が起こるか、計り知れないほどに未知である。RSKの能楽堂ホールがもしなかったら、多嘉良カナさんの企画は実現しなかったろう。能楽堂ホールがあったからこそ、ここに多嘉良カナさんをお招きしたいと願ったのである。当日こられたかたが多嘉良カナさんのパフォーマンスを楽しんでもらえたら、いうことなしなのである。

母の家に咲いていたフリージア

話を変える。だが、一昨日RSKの天神9女性のK部長(昨年出会ってからのお付き合い)にお会いし、集客のことを話すと、デジタルでチケット販売する、っと昨日からわたしの及ばない方法でカバーしてくださるべく動いて(仕事ではないのに)くださっている。

昨日夕方お電話いただき、丸投げ、お任せした。思わぬ展開。あと10日、当日如何様になっても私のなかではあきらめがついている。ただ私が感動し嬉しいのは、K部長の諦めない優しさである。ベストを尽くす用意周到さ、仕事に対する真摯さ。能楽堂ホールスタッフは側面的に非力な時代にそぐわない企画者をバックアップしてくれる。(次回はもっと事前にゆっくりご相談します)

私が企画賀したくなるのは、(できるのは)能楽堂ホールスタッフの爽やかな情熱の無償の応援があるからである。

2023-04-08

71才の気付きの深まり、37年ぶり本格的に自転車に乗ることにしました。そして想う。

 週に少なくとも一度は五十鈴川だよりを打てることは、精神的ビタミンを自らの体に注入するかのようで嬉しい。

気まま、自由自在、でいられることのなんという在りがたさを、今朝も噛み締めている。起きて3時間が過ぎている。すでに朝一番にやりたいことを済ませ、五十鈴川だよりが打てる一時が慎ましくも幸せなわたしである。

この年齢になると、スッキリと朝目覚められるのがこんなにもありがたい、事なのだと知るのは、この年齢を迎える事ができたからこそわかる。ほぼ6時間一度も起きず熟睡した体は元気である。

再び自転車に乗り今を味わう春

その日一日を、穏やかに元気に健やかに過ごせれば、もうほとんどわたしの生活は足りている。他の方たちとの比較などしない。ひたすら自分の体と向き合う。自己中心的な生き方を選択して、なんとか古稀を迎えることができた現在を、くり返すもありがたいという他はない。

昨日夕方、雨上がりの公園散歩に出掛けた。69才ではじめての大きな手術をし、退院したのち始めたことのひとつに、春と秋の裸足散歩があるのだが、昨日久しぶりに運動公園の水のたまった運動場を歩いた。ピチピチチャップチャップ、わずか20分くらいの時間ではあったが、足の裏がじんじん、大地マッサージをした。濡れて土で汚れた足をきれいに洗い拭いて靴下を履いた後の爽快感がたまらなくいい。毛細血管が刺激されじんじんして、生きている実感がする。

わたしはこの年まで、健康食品とかサプリメントとかを飲んだ事がない。この先はわからないが、ごく普段の普通の食事で退院後のこの2年間、ことさらな不都合もなく、元気に肉体労働バイトも今のところとりたてて問題なくこなせている。何よりも企画が打てている。ありがたいことだと、天を仰いで感謝するばかりである。

ところで61才でシェイクスピアの音読塾を立ち上げ、コロナの不可抗力でやむなく閉塾したが、71才を迎え、これから想うことのひとつは、あくまで自由自在にどこ吹く風のように、気ままに生きたいということに尽きるような気がする。

こだわりのような感覚を捨ててゆきたいという気持ちが強くなってきた。誤解されても構わないがシェイクスピア作品の数々を根底に、他の作家の作品も時間の許す限りてにしたりしながら、この世に生を受けた喜びのあらんかぎりを慈しめるような生き方をこそ、人間を含めた森羅万象から学びながら、謙虚に存在できれば、もういうこともなしなのである。

ってなことでいきなり話が飛ぶが、今年37年ぶりに東京で買った自転車を修理し、ポスター配布でのったのだが、それで改めて自転車に乗れるわが体と自転車の魅力を再っ発見し、バイト先まで往復(片道ゆっくり走り40分)雨の日以外できるだけ乗ろうかと今思案中なのである。

すでに4回ほど往復したのだが、手応えをつかんでいる。真冬や真夏は控えても4月5月は風景の移り変わりが十分に楽しめそうで、何やら嬉しいのだ。それもこれもなにもかも、体の健やかさの賜物と考えれば、宝はわが体にこそ在る。わが体なくして世界はないのである。


2023-04-07

坂本龍一さんの訃報に接し、想う春の雨の朝。

 まったくほとんど別世界に存在していたかのような、だが遠巻きに常にその存在が、好き嫌いではなく気になる人であった坂本龍一さんがお亡くなりになった。わたしと同じ年である。

生まれ育った環境があまりにも異なるのだが、同世代、同じ年というのはやはり特別な感慨をどうしても抱いてしまう。それがなぜなのかを言葉にするのには、時間がかかる。

チェルノブイリの近く、汚染された大地の村に泉が涌き出ていて、その泉からは放射能が検出されず、その大地で生きる村人たちの生活を描いた本橋成一監督の【アレクセイと泉】というドキュメンタリーを上映、自主企画したことがあるのだが、その音楽が坂本龍一さんであった。

当時、アカデミー賞音楽賞等を受賞したりしていた世界の坂本が、このような小さなプロダクションのフィルムに音楽をいれていることにビックリした記憶がある。お金とはまったく縁遠い、早い話お金にはまったくならないような仕事でも、きちんとやられていたその生き方や姿勢に驚いた記憶がある。それと折々の発言に。まさに時代と格闘する稀な音楽家であった(を亡くしてしまった)。

話に脈絡がないが、坂本龍一さんはウクライナでの戦争や、東北の津波大震災、また環境問題他、世界の痛みや困難な状況を生きている人々への、分けても未来の子供たちへの音楽家としての及ぶ限り静かに発言、動き実践、支援活動を続けておられた。

凡人には遠く及ばないような生き方、活動をされた方、たまたま同じ年であったにすぎないが、余計な感傷抜きにしても、なぜこうも病魔は惜しい才能を早世させてしまうのか、理不尽な思いにとらわれる。

先日の大江健三郎さんの訃報ほか、このコロナ禍の数年でわたしの耳に届いた、何らかの形で影響を受けた方々の訃報は、古稀を過ぎた体にずんと響いてくる。摂理としてたんたんと受け入れるにはあまりにもの切なさが染みるように、わが体にまとわりつくのは名状しがたい。

直接あったり見たりしたことがなくても、わたしにとっては【アレクセイと泉】の音楽を担当した方、なのである。そこに勝手ではあるが核時代が生んだ音楽家、核時代をどこかで意識共有していたかのような、錯覚にもにた一方的な想いをわたしは持つのである。

人類はどこに向かってゆくのか、平和と戦争、幸福とは何か、そして人間とは何か、人間は嘘をつき、己を正当化する生き物と定義することは容易い。お亡くなりになる前、ガンにおかされてから、人生観が変化された事をのべられていた。

宝の本となりました

今わたしは生きて五十鈴川だよりを打っているが、後数ヵ月の命だと宣告されたらどのように生きて行くのだろうか。雨、風、花、空、海、お日様、土、孫たちの輝き、鳥たちの鳴き声、この世の天国と地獄。生と死。死は確実にわたしにもやって来る。慈愛という言葉がある。

お会いしたことがなくても、どこかで身近に感じる方がいる。素敵な人だと感じ入ることがある。そのような方たちから学びながら老いゆく路を見つめ歩きたい。




2023-04-01

妻と近所にお花見に出掛けた、4月1日の夕刻に想う。

 4月1日である。汗ばむほどの陽気のなか、曹源寺に垂れ桜を見に行き、妻の友人がやっているお弁当屋さんで、二種類のお弁当を買い場所を移動、家の近くの誰もいない神社の境内で何本かの桜の花が散り舞うなか、たった二人でお花見しながら昼食を済ませた。犬のメルも一緒に。土日妻は仕事が多いのだが、今日はお休みだったので、忙中閑ありよき時間を過ごすことができた。

つまが育てたクリスマスローズ

今月は多嘉良カナさんの公演が控えている。3月はまさにあっという間に過ぎていった。なにしろ午前中、平日はほとんど働いているし、午後はポスター配布を連日こなしていたし、どうしても行きたい展覧会があって上京したり、もどっても午後は友人知人にお便りを書いたりと、時間のかかることばかりやっていたので、妻とのゆったりとした時間が持てずにいたので、わたしにとってはまさに慈雨のような一日となった。

生活第一主義の私としては、そのなかで発酵するかのように自然に生まれてくる企画をあくまでやりたい。直接の関与がなくても家族が応援してくれないような企画は絶対にやりたくはないし、わたしの場合やれないのである。あくまで家族第一、バランスをはかりながらことを進めている。だから、以前も書いたことだが、家族になにか事変が生じたら即中断か止める。

今日は本当にほぼ一日妻と過ごすことができ、家の玄関の繁った、しまとねりこの枝を切ったりなど、家の事ごとができて、これでまた4月23日に向かうことができる。五月には長女に二人目の子供が授かり生まれてくる予定だ。家族は刻一刻変容。だから素晴らしい、日々未知とのであい、日々が新しい、今日も明日は過去であるとは誰かの言葉。今を生きるしかないのは摂理である。

妻と一日を共にしながら、いろんな話ができたことのありがたさを記せれば、もうほとんど打つこともないのだが、これからの人生、普段の日々の妻との時間をこそ、もっとも大切に生きねばならない、という殊勝な気持ちは古稀を過ぎますます強まってきている。

その事をつまびらかに記すのは野暮なのではあるが、臆面もなく打つ。私が企画が打てるのは、妻の存在があるからこそ成立するのである。40才から企画者を定年まで続けられ、今もまた10年ぶりに昨年から再開できているのは、妻のバックアップ、応援のお陰なのである。

その事を繰り返すもきちんと打っておきたい。かけがえがないという言葉があるが、わたしにとっての妻はそういう人なのである。走るわたしの手綱をさばくのが彼女の存在である。だからわたしは企画はするが、方法他かなりの点で彼女に相談する。かなり的確に指摘してくれるので、進めるのである。

相棒という言葉があるが、わが連れ合いは老いるにしたがって、ますます相棒の度を深めている。特に昨年の企画は彼女の応援存在がなければ実現しなかったろう。それと娘たち家族の。

とりとめなき一文になるが、親として娘たちが成長し、娘の子供、わたしにとっての孫の存在の大きさは現在のわたしにとって計り知れない。孫たちの存在、家族の存在がわたしに企画を打たせている(のだ)。

平和の在りがたさ、今在ることのへの限りなき感謝、平凡の極み、今年も妻と桜を愛でられた事への嬉しさを打って、今日の五十鈴川だよりを終える。