妻が家にいる、そのことだけで五十鈴川だよりを打とうという気持ちになれるのは在り難い、シーンと静かな夕刻の五十鈴川だより。
8月は、広島と長崎に人類初の原子爆弾が投下され 、コロナ下での式典は、東京オリンピックともかさなり、メディア報道はいつにもまして少なかったように思える。
被爆体験者は年々高齢化し、その言語を絶するコトバかしえない悲惨な出来事の風化は、いかんともしがたい現実として、間もなく古希を迎えようとしている、初老凡夫にも、このままでいいのかとの、やるせない矛先をどこに向けたらいいのかとの、被爆者の無念の思いが、届く夏である。
昨日も書いたが、手術退院後、新聞記事の被爆体験者の記事、以前は固く口に閉ざしておられた方が、90歳を過ぎて語り始めた記事など、病の効用というしかないのだが、きちんと読むようになってきた。我が身のこととして考える。
もっと打つなら、そのあまりの過酷さを、爪の先程度の想像力であれ、うけとめ考える力を養い、インターネットで五十鈴川だよりを打ちながら、わが想いのいたらなさを振り絞り、戦争の極致の果てに投下された、核爆弾の不条理極まる出来事を、心ある一人一人が、あらゆる方法で伝えてゆく、気概を持たないと、まずいと自省する夏である。考え受け止める力を養いたい。
このような思いを共有できる人種や世代を超えた人との出会いを、求めたいと思う気持ちが、老いてきつつ深まってきている。気づきの深まりには年齢は関係ない。
大きなことはできなくても、コケの一滴のようなおもいで、一滴のおもいを一文に込める。平和とか安心とか、安全とか、血や汗の伴わない、空虚極まる痩せた言葉、思考停止言説が無尽蔵に日々生み出され、あっという間に消費され、忘れ去られてゆく現実に、冷静に立ち向かうには、考える力を蓄え、日々研ぎ澄まさないと、私のような単細胞人間はまずいのである。
真夏炎天下汗を流しながら、【身体で考え思考する】かってあった悲惨な出来事に想いをはせ、今この世に在り、穏やかに当たり前を享受できる在り難さ、風に揺れる樹木の木の葉の向こうに浮かぶ夏の雲を眺め、老いゆく2本足で大地を踏みしめ、何気なさを噛みしめ、無念の死者たちの霊に首を垂れるのである。
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