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2021-08-01

いよいよ8月、夏の暑さで頭が回らないが、暑さ対策五十鈴川だよりを打ってしのぐ。

 8月1日は水の日であるとラジオでいっていた。そのこととは全く関係がないが、時は流れ早8月である。オリンピックが始まりすでに半ば、新聞もテレビも予想通りお祭り的な報道一色に染まっている感が否めない。

メガポリス東京の感染者数が昨日4000人を超え、岡山も含め全国的にもコロナの感染者数は燎原の野火のように広がり、このままどのような結末を迎えるのかは、予断を許さない事態である。

オリンピック報道に彩られる中、異を唱える少数マイノリティの醒めたジャーナリストによる健筆、コラム、記事などを探すが、極めて少なく感じる。そのような中、作家の島田雅彦さんが(しっくりくるので)7月24日M新聞に特別寄稿、【五輪というダークファンタジー】という一文を寄せている。

諧謔性に富み、豊かな教養知性力に富、どこかユーモラス、そして筆法鋭くコロナ渦中のオリンピックの、そのあまりにものお粗末な欺瞞性の数々を、独特の文体で容赦なくあぶりだす。お見事というしかない、透徹した思考はこれぞ物書き売文業の真骨頂、よくぞ書いてくださったと快哉を叫び、切り抜いてノートに貼りつけてしまった。

それにしても、こうも暑いさなかによくもオリンピックが行われているものだと逆の意味で呆れ感心てしまう。初老凡夫の私は、とうの昔にオリンピックそのものに対する関心はなくなっている(個々の選手には関心がある)し、早くこの欺瞞性に満ちたオリンピックが終わり、静かな秋の訪れをただ待ちわびている。

だが、コロナ渦で必然的にあぶりだされた茶番的金慢性に彩られた、あらゆる欺瞞性のつけはすべての国民が負わされる、歓喜の後の事後処理、その覚悟だけは片隅に持っておくべきだろう。

(ただ誤解なきよう打ってておくが、メダルの色、順位、国籍に関係なく、好きな競技で、その思わぬ意外な人間性が、私の胸を撃つ品格がおのずと浮かび上がる選手は、そっとひそかに応援している。たくさんいるがやはり若い純粋さを感じる選手。一人例をあげれば、サッカーの久保建英選手、まさにトランスナショナルな選手が、スケートボード、サーフィン等で台頭しているのが、救いである、あきらかにこれまでの日本人選手とは異なるにおいを放つ世代の)

 いきなりいつものことながら話は変わる、夏になると 来年は古希になろうというのに少年期の夏の思い出に、いまだ浸りきる自分がいる。ああ、わが心の五十鈴川へと、こころは回帰するのである。生家は消えてしまったが、わが心には健在で、敷地の中で過ごした小学校5年生までの今となっては宝となった少年期の記憶は、おそらく私が消えゆくまで、繰り返し内面美化され、40代で元気であった両親の姿と共に蘇る。

家のそばに在った田んぼに水を汲みだす用水路でのパンツ1枚での水遊びの気持ちよさは、忘れられない。プールなどというしゃれたものはなかった。1文のお金がなくとも、子供は遊びの天才なのである。それがどうしてお金がないと遊べない大人になるのかが、いまだわからない。ヒトは存在そのものが遊び心の塊であったに違いないのに。ああ、わからない。

なんだかとりとめのない一文になった、暑さのために 頭が茫洋としているからだ。五十鈴川まで帰るのは、時間がかかるしコロナ下での帰省はままならないが、そっと超短い夏休みをとらないと、時代の趨勢に流されてしまう愚者になってしまう。

命の水の日、五十鈴川で老いの身を清め、金銀銅のアナウンサー他総出演タレントの雄たけび繰り返しの熱狂国威発揚イベントから身を守るには、目を閉じ、競争順列からは限りなく遠い、見えない存在の大いなる人知を超えた豊饒な世界にこそ耳を傾けたい、真夏の老い人である。

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