オリンピックが終わり、昨日夕刻10日間次女のところに、孫のケアに出掛けていた妻が帰ってきた。
10日間何とかひとり暮らしをこなし、妻にとっての家族、メルと花のおせわもし、平日は猛暑の中午前中は働いていたので、疲れた体のケアに努め、五十鈴川だよりを打つ気がおきなかった。
来年は古希を迎えようかという年齢なのに、この真夏の暑さの中での肉体労働は、正直 いかんともしがたくこたえるが、何とかやれているそのことに、自分自身が驚いている。
この暑さの中での私の一番の対策は、午睡と午睡後の水浴読書である、午後3時過ぎくらいから2時間近くを水浴しながら本を読んで過ごす。下半身浴から徐々に首までつかり、しばらくしたのち、下半身を水に浸し本を読むのである。
午前中の肉体労働、ほてった身体では、頭が読書モードにならないのに、すぐに本の世界に集中できるこの水浴読書は、暑夏を乗り切るための必須不可欠時間、老いの悦楽時間となっている。
熱帯夜の夜などには、妻のいない間何回か、夜も寝る前に水浴読書をして、何とか心身のコンディションを整えて、よく眠り、気持ちよく肉体労働に励めるように、ただそのことのみに集中して、一日一日をしのぎやり過ごす、といった体のこの10日間を過ごしていたのである。
読んでいた本は、池田晶子さんの【考える日々・全編】若松英輔さんの【池田晶子 不滅の哲学】など。3月の手術退院後、以前にもまして、生と死についての考察、存在とは何か、自分とは何か、を小生真面目に考えるようになってきたように思う。
人類の英知の喧々諤々の思索の歴史、そのさりげない知見の表現に、該博なる知識を感じる。難しい語彙や表現を、門外漢無知蒙昧の私にもわかる言葉で伝えてくださる知性。
永遠の謎をしつこく考え続け、そのことをコトバに置換した、哲学者池田晶子さんの本を、わかろうがわかるまいが読んでいる。読んで居る場所が水の中なので、時折冷や水を頭からぶっかけられたように、はたと膝を打ったりしたりして、これだから、本を読まねばならないのだと、老骨に水を打つのである。
【古希近く・哲学するか・盛り夏】といったあんばいなのである。一口に哲学、私にとってはうってつけ、お金不要、あたまと体、心身があれば、思考への迷宮旅、じっと動かず、水の中で蛙にでもなったかのように、沈思黙考時間を過ごすのである。
池田晶子さんの、鋭利な刃物のようなコトバに、古希近くにもなって浴びせられようとは、思いもしなかった。だから生きていることはかくもつらくも面白いのである。病を経験することで以前は気づかなかったことが、深くとらえられたり、感じるようになったりしたのかもしれない、とまあ私としては、よい方に考えるのである。考えることは面白い。
コロナの猛威収束が 一向に見えない今、猛暑の日々の生活の中、何とか頭を冷やし、私は哲学的な時間を過ごすことで、生きている老いの今を見つめ、先人の哲学者の生きたコトバに清められるのである。
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