ページ

2021-06-29

土取利行さんに会え、昨日夕方無事に旅から帰ってきました、そして想う。

窓の外にはまだ月が浮かんでいる。わずか2泊3日のドライブ旅から無事に帰ってきました。まだ全身に心地よい疲労感がのこっていますが、ともあれわずかであれ打ちたし五十鈴川だより。

土曜日の朝5時過ぎに家を出て2号線を北上、道がすいていて予定を変え、雨も降りそうにないので、一路畏怖する音楽家、土取利行さんに会うべく、暮らしておられる郡上八幡の芸能堂、立光学舎へと向かう。(立光学舎とは、パートナーであられた故桃山晴衣さんと、1987年に設立した、音楽活動の拠点の学び舎である)

何せ久しぶりのロングドライブの旅だったので、体力的に無事にたどり着けるかちょっと不安ではあったのだが 拍子抜けするほどに疲れもせず、高速を使ったのは大都市を通過するときのみで、京都から琵琶湖を抜け岐阜に入り、あとは移りゆく6月の中部地方の景観を眺めながら長良川を北上、のんびり走り、午後4時には立光学舎に着いた。

岐阜に入って連絡を入れていたので、土取利行さんは意外な来客に驚きながらも、これ以上はないもてなしで私を迎え、遇してくださった。その日の午後10時までの語らいと、翌、日曜日のお昼までの(立光学舎を後にするまで)計10時間近くにわたっての男二人だけの語り合い時間は、まさに至福のひとときというほかはない、訪ねようと思いついた私の内なる発露を十二分に満たしてくれた。(出逢って43年、こんなにもゆっくりと話しあえた二人時間は初めてである。まさに一期一会のひと時が持てたことを、神に感謝する)

後日、つたなくはあれ、二人だけの語り合いの出来事の、まさに即興的に氏独特の語り口で展開される、いちいちのわずかでも、五十鈴川だよりに打っておきたいとの思いはあるのだが、帰ってきたばかり、身体の疲れとほてりいまだやまず、思考まとめ叶わず、後日改めてわずかではあれ打ちたい。いつの日にか孫に読んでもらいたく。

着いた日の夕食(玄米に煮干しが入ったごはん、お味噌汁、カツオのたたき)翌日の朝食、(土取さんが焼いたパン、スクランブルエッグ、直菜園で採れた野菜サラダ)のおいしかったことは何としても五十鈴川だよりに打っておきたい。

まさか、土取さんがきちんと夕飯や朝ご飯を、用意してくださるとは思いもしなかったので、感動したのもさることながら、そのあまりの地に着いたというしかない質素で充実した静かな暮らしぶりに感動したのである。

五十鈴川だよりを打ちながら、郡上八幡まで土取さんをたずねて、本当に良かったという思いが、さざ波のように今もこみ上げてくる。今日は、最後にこれだけは打って終わりにしたい。

土取さんとの語り合いの中で何度も語られた、一番新しいNHK北海道放送局とのお仕事。手島圭三郎(版画家、絵本作家)さんのドキュメンタリーのアニメのシーンの音楽を担当されている。着いた日の夜私は見せていただいたのだが、言葉がないほどに素晴らしい。感動の宝、孫に見せたい。

すでに、6月11日北海道では放送されたのだが、6月30日水曜日、午前0時10分~1時07分 BS1で全国放送されます。真夜中今夜、日付が変わってすぐなのでお見逃しなくと、切にお伝えしたく思います。


2021-06-26

本当に久しぶりのドライブ旅に出かける、夜明け前の五十鈴川だより。

 昨日も今日もまだまあるい月が窓から望める。夜明けが速いといってもまだ夜明け前である。

今月はもう肉体労働の アルバイトはない。少し頑張ってお休みをいただいたのである。退院して3ヶ月無事に働けているし、来月からはいよいよ7月暑くなる。その前に自分なりの快気祝いではないが、お休みをいただきちょっと6月の新緑を愛でる、遠出のドライブがしたくなったのである。

年齢的にまったく夜の運転はしなくなったので、夜明けと共に出掛ける予定である。遠出といっても、帰省するわけではない。お天気次第ではすぐに帰ってくるかもしれないが、気分次第で2泊くらいしてもいいかなあ、というお気楽な私の旅なのである。

この年齢になると、今後そうたびたびのドライブ旅はできなくなると思うので、小さいころの旅の前夜のように、いつにもまして早く目覚めてしまったので、何やら短くてものおもいで打っているという次第。心配性の妻の許可もいただき、私としてはそこはかとなくうれしいのである。

日本海を見たいという思い付きと、あと一つ往きたいところがあるのだが、梅雨時のお天気次第なので、いった先は戻ってきてから打つことにしたい。珍しく昨日のうちに旅に必要なものは、準備して車に積んで、車内でゆっくりと休めるようにした。

ということで、気ままなドライブ旅に出かける夜明け前の、五十鈴川だよりとなってしまった。旅の案内はスマホだより、車に電源があるので安心である。しばしすべての間接情報を遮断し、自分の五感と第六感が頼りの、気まま老い楽ドライブ旅である。

私は川が大好きなので、きれいな川があって木陰があれば、せせらぎの水に身を浸して 老いのざわつきを清めたいとの、お遊び旅である。

お遊び旅ではあるが、昨年から今年のコロナ渦中、私が影響を受けた方々が次々と冥界に旅立たれたので、私にとっては鎮魂を籠めたドライブ旅でもある。持参する本は立った一冊、アンネの日記だけである。

2021-06-24

立花隆さんがお亡くなりになり、謹んでご冥福を祈る朝に想う。

一言ではくくれない、多岐にわたる知的好奇心のおもむくがままに、まさに人生を突っ走った知の巨人といわれる立花隆さん(と気軽に呼ばせていただく)がお亡くなりになった。享年80歳、1940年のお生まれ、私より一回り年上である。私がその名を刻んだのは、やはりロッキード疑獄事件である。立花レポートが文芸春秋に連載され、結果時の宰相田中角栄が逮捕され、いまだ語り継がれるあの事件。戦後の昭和史の中でも、特筆すべきまさに歴史的出来事として繰り返氏取り上げられるだろう。 立花隆という稀有な枠に収まり切れない、氏にしか叶わない多分野の、年代ごとになされたすぐれた仕事の達成の数々は、今後多くの研究者の手で検証されてゆくだろう。まさに時代が生んだとしか言いようがないほどに、戦後の激動の昭和を疾走され、燃焼しつくした方ではなかったのかとおもう。五十鈴川だよりで謹んでご冥福をいのりたい。 私の書だなにも、【巨悪対言論】他氏の御本がかなりある。わかりやすい本から骨の折れる分野の本まで。とてもではないが、氏のお仕事の全貌は計り知れない。だが、わたくしごときにも大きな影響をあたえてくださったということが、お亡くなりになって改めて気づかされるのである。氏は長崎のお生まれ、長崎に原爆が投下された時5歳である。きっと記憶の奥底に長崎の惨場が刻まれていたはずである。 知の巨人は、どのような足跡を歩んで生涯をかけたお仕事を成し、突っ走って生涯を閉じられたのか、凡夫の想像力を刺激してやまない。戦前の昭和と戦後の昭和とまたがって(価値観、制度がひっくりかえった)生きた、生きざるを得なかった、もっと上の世代を含め、置かれた状況は異なるとはいえ、私はこれから上の世代が感じ経験した思いを知りたい、学びたいという思いが、このコロナ渦中強くなっている。 冷静に考えると、元気に活動でき、学ぶ時間はさほど残されてはいないのである。昨日も書いたかもしれないが、少年老い易く学成り難しなのだが、いよいよこれからの10年を生活者として、地に足をつけながら書物の海を耽溺したいと思うのである。それにしても老いや死は、ある日突然やってくるという徒然草の言葉が沁みてくる朝である。

2021-06-23

【加藤陽子著、戦争を読む】を読みながら、学ぶことの大切さを痛感する。

いま、加藤陽子著、【戦争を読む】をカタツムリのようにゆっくりと読み進んでいる。ご存じかとは思うが、加藤陽子さんといえば一方的に学術会議への参加を今の政府から拒否された6人のうちのおひとりである。 M新聞に月に一度連載している、加藤先生の近代史の扉を、私は勉強するつもりで、切り抜きながら勉強させていただいている。実は戦争を読むという御本、ずいぶん前に買っていて、いつか読まねばと思っていたのである。図書館が長く閉じていたので、本棚に眠っていた御本を手に取り、じっくりと読み始めたのである。 コロナ渦中生活で、私自身が一番変化したのは、とにかく本をゆっくりじっくりと読むようになったことである。本を読む速度が遅い私なので、限られた範囲での読書しかできないが、もし本を読む楽しみがなかったら、とてもではないが体と精神のあんばい加減がおかしくなっていたに違いない。 さて、戦争を読むという御本は、日本政治史を(主に1930年代を中心に)を専門にされている先生が、1988年から2006年にわたって、新聞、週刊誌、専門雑誌などの媒体に書かれた、主に戦争を論じた書評集である。著者渾身の御本なのである。私にとっては、思考の羅針盤として手元に置いて、繰り返し読んで学びたい本なのである。(本の奥付を見ると2010年とある) とてもではないが、私にとってはあだやおろそかには読めない類の御本なのである。もしコロナ渦という事態が出来しなかったら、と考えるとまことに忸怩たるものが生じてくる。あきらかにこの一年以上のコロナ渦中生活で、私の読書の範囲は些少とは言え、広がったと感じる。 以前だったら、手にしなかった分野の本(私にとっては手ごわい専門性の高い本)も意識的に読んでみようとの思いが、動くようになってきたのである。幸い加藤先生は本は友達と公言されておられるほどに、小さいころから文学他の本も多読されておられるので、政治思想史の御専門とはいえ、読者のことをおもんぱかって、私のような無知蒙昧の市井之徒にも分かりやすく読める御本なのである。 だが、内容目配りは広く昭和史の奥深くに静かに分け入ってゆくたぐいまれな書評となっている。膨大な知の卓見が述べられていて、ご紹介されている綺羅星のような本を、私は生きている間にすべて手にし読むことは叶わないだろう。だが、わずかではあれ、読みたいと思わずにはいられない本の数々を先生は紹介されている。人生は短くとも、限られた時間、珠玉の本を手に旅したいものである。 加藤先生は1960年のお生まれ、私よりも8歳もお若い。つくづく、少年老い易く学成り難しとの言葉が沁みる年齢になってきたが、あまり年齢のとは気にせず、気の向くままに、信頼に値する碩学のご紹介の本に学びたい。 話に脈絡がないが、若くて素晴らしいお仕事をされている研究者、学者がこんなにもおられることに(もちろん今は亡き方の御本も含む)どこか安堵してしまう。学問ノススメ、加藤先生のような人材を締めだしてしまう政府の横やり介入は、未来を暗くする懸念がある。 【戦争が廊下の奥に立っていた】渡邊白泉(1913~1969)と。いう俳人が詠まれた句だが、この俳人のことも書評で知った。知る悦びは、老いをしばし忘れさせる。

2021-06-20

昨夜10時頃、外に出ると半月の月が梅雨の夜空に浮かんでいた、10年後の自分は存在しているだろうか。

 間もなく夏至である。夜明けが本当に早い。今朝はさわやかな梅雨の晴れ間が窓からのぞいているが、日中の気温は相当に暑くなるとの予報が出ていたので、できる限り集中して涼しいうちに、五十鈴川だよりを打ちたい。

特別に打ちつづりたいことがなくても、打つのである。机の前に座るのである。すっかり日々のおまじない儀式のような五十鈴川だよりになってきたのは、やはりコロナ渦中生活で、極端なまでに行動範囲が限られた中での生活を、一年以上 も続けてきたせいであることは確かである。

初めて収穫したキュウリ

五十鈴川だよりは還暦を過ぎて、どこか時代に翻弄され、移ろいゆく自分自身のゆれる内面の在り様を、蜘蛛の糸のようにコトバにすがって、先日も書いたたが、いわば心を鼓舞する鐘だからである。

自分の命を運ぶのは、自分の考える葦(足)である。限りなくルーティン化したかのような人生で初めて経験する日々を静かに送れているのは、逆説めくが還暦までさんざん動ける身体で動き回ってきたからではないかと思う。

誤解を招きそうだが、年齢的にいいタイミングで、コロナ渦中生活を送らざるをえない状況になったのは、極めて個人的にはよかったのではないかと、今は考えられる自分がいる。

対面での声出し他ができなくなったおかげで、思考する時間が増えた。 世の中に出て半世紀、こんなにもゆっくりといろんなことを自省しながら、(時にいまだ怒りながら)五十鈴川だよりを打ち続けられていることに、どこか自己満足的に安堵するのである。(でももうどこかコロナウイルス情報にはうんざりである)

とくに手術して後は、どこかいい意味であきらめ、達観というには程遠いのだが、煩悩を受け入れつつ、帚木蓬生先生いうところのネガティブケイパビリティを、生きてゆくのだと、どこかで得心している私である。

早い話、ヒトは自分の人生からは息を引き取るまで、この舞台から逃れられないのだと、知る。ならばハムレットのように、覚悟するしかないのである。(じたばたしながら)いかに与えられた時を生きるか、生きないか。

忽然といつものように話を変える。五十鈴川だよりを打ち始めた時に、これからの10年は(晩年時間の)大切な時間になると書いた記憶がある。長女が大学を卒業し社会人になったころばかりのころ。そして今また思う。

これからの10年はますますもってコトバ化しにくいが、大切な10年になる、大切に生きねばと覚悟の念は深まる。(孫の13歳を見ることができるだろうか)先の寿命は分からないからこそ、その思いだけはきちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。

果たして10年後、生態系は、人類の行く末は、わが暮らしは、いかように変容しているであろうか。凡庸な初老凡夫の想像を絶する事態が、出来しないことを祈りながら、地上の片隅から、雨の中からだと対話しながら、年寄りにできること(身近な孫のお相手もさることながら)の可能性を思索したい。我夢想するゆえにわれあり。


 

2021-06-18

風に吹かれて、超あるがまま、わがままに打ち続けたし、五十鈴川だより。

本文とは関係のない書物です

 五十鈴川だよりいつまで打てるかはわからない。ささやかな、極めて個人的な揺れる流れを、起きて間がない老いゆくうろんな躰に、思い浮かぶよしなしごとが打てれば、一日でも長く撃ち続けたい。

何よりも自分自身という命の器を、鼓舞し元気づけるために、私にとって五十鈴川だよりは私の命の流れそのものといってもいいくらいに、打ち続けている間になってしまったのである。

生家から約20㎞のところに、 故郷が生んだ歌人若山牧水がいる。今も家が保存されていて、川を挟んで記念館がある。数年前の夏、私はその川で初めて泳いだ。小さい子供を泳がせて遊ぶには最高の場所である。

話を戻すと、その牧水がこんな歌をうたっている。【今日もまた 心の鐘を打ちならし 打ち鳴らしつつ あくがれてゆく】今の自分の心境もそのような塩梅である。

おまじない儀式のようなものと化しつつある。きわめて超わがまま金太郎あめのような五十鈴川だより、なのである。その傾向は手術をする前と退院後では明らかに変化がみられるように、おもう。より自然の流れになってきたというか、あるがまま、ある日突然なにがしかの出来事で五十鈴川だよりが打てなくなっても、悔いのないように、打てる今をこそ生きなむとす(いきなり文語体になってしまいました)

さて、いつものように話を変える。昨日朝、ゆっくりと少しずつ読み進んでいた、城山三郎著【辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件】を読み終えた。著者が昭和36年に書いた小説である。私はまだ9歳である。

著者の履歴を読むと直木賞をとられて二年後の作品である。著者は昭和2年のお生まれだから、著者が34歳の時の作品である。なぜ自分がこの小説を今読んでいるのかを打って記すのかは省くが、城山三郎さん(と気軽に呼ばせていただく)のあまりにも無垢で純粋な生き方に打たれたからである。

最愛の奥様に先立たれたあと、ご自分も後を追うかのようにお亡くなりになって、見つかった遺稿が本になり【そうか、もう君はいないのか】読んだのは、2008年のことである。

もう今から13年前といえば、私が56歳である。長女が大学生次女が高校生だった。今は昔である。城山三郎さん他、今は亡き私の好きな方の御本を読めるということ、特にこのコロナ渦中生活の中で、心ある作家の遺された作品に虚心坦懐に向かい合い、渾身を籠めて紡いだ言葉に耳を傾けることは、救いである。

2021-06-17

昨日、アンネフランクのドキュメンタリーをBSNHKで見て想う。

わが心の五十鈴川本文とは関係ありません

 昨日午後、再放送NHKでアンネフランクのドキュメンタリーを見た。名女優、英国が誇るヘレンミレン(26歳の時この方の舞台を私はロンドンで見た)が時折日記を朗読する。若い現代の女性がユダヤ人が送られた先の収容所を訪ねながら、ついこないだの悲惨というか言葉を絶する歴史を案内する。手にはスマホを持ち、時折友人にメールを送りながら。

奇跡的に収容所 を生き延び、当時は子供であったが、今は高齢化した数人の女性が悪魔時間としか言いようのない収容所体験を語る。一人の女性の左腕に彫られていた刺青の数字の四桁の番号が初老凡夫の私の眼底に焼き付いている。

多分 そのことが、私に五十鈴川だよりを打たせている。ブログでは詳細の内容を打つことはかなわないにもせよ。もし自分がそのような状況にある日突然放り込まれたら、と想像すると慄然としてしまう。

私は、過去の悲惨極まるホロコーストや、ジェノサイドの歴史をきちんと学んでこなかったという自責の念が、最近年齢を重ねるにしたがって強くなっている。

朝から、論旨に脈絡のない五十鈴川だよりになってしまうが、広島長崎の無辜の民の上に投下された人類初めての核爆弾による、瞬時の虐殺、東京他日本の各地の無辜の民に落とされた木材家屋を焼き尽くす雨あられの爆弾の数のすさまじさ、まさに人間を虫けらのように殲滅する、正義の側の人間の所業、なんとも言葉の虚しさ、しかない。

梅雨のさなかの午後、アンネの日記のドキュメンタリー を見終えておもうのは、遠い国の悲惨な歴史上の出来事では決してないという、厳然たる事実である。アパルトヘイトは言うに及ばず、今も続くウイグル族やチベット、黒人や黄色人種への、偏見や差別の問題のあまりの根の深さには、言葉を失いながらも、言葉にすがって五十鈴川だよりを打つしかない。

憎しみの連鎖、ヘイトの連鎖、大坂なおみ選手がSNSで発信する勇気を、初老凡夫も学ばねばと思う。各人各世代、老若男女、ユウチューブの動画であれ、方法は無数に個人個人の心にある。ヒトとして当たり前に生きられる権利を侵すものには声を上げなければと、小生は想うのである。

地面に頭を踏みつけられなくなって亡くなった黒人男性を、たまたま居合わせたスマホの動画で撮影し、全世界に発信した方の勇気。たった一人の行動アクションの影響の大きさを思う時、SNSを使う人間の良心こそが運命を左右するのだと思い知る。

ファクトチェックという言葉があるが 、洪水のような情報の中から、信頼できる発信者の声に耳を澄ます努力をしなければ、流されてしまうと痛感する。自由とは何か、生きるとは何か、コロナ渦中生活はまたとない考える時間を与えてくれている。





2021-06-12

術後、お酒を飲まなくなり、お酒を口にしない生き方をされている土取利行さんに、とても会いたくなっている梅雨の朝。

 三月の頭、思いもよらぬ緊急手術入院、退院から間もなく3ヶ月が過ぎようとしている。五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方はご存じだと思うが、順調というほか言葉が見つけられないほどに、体重がもとに戻らないほかはまったく以前と同じくらい回復している。

誤解を恐れずに打てば、お酒を全く飲まなくなり、甘いものも極端に控えるようになったせいなのかどうかは分からないが、野菜中心のつましい食事で以前よりもずっと健康になっている、とさえいえるのではないかと思えるほどに、身体の調子がいいのである。

量的には大したことはないのだが、50年近くお酒を口にしていた生活態度の負担が、頑健ではない身体の肝臓他の臓器にたまりにたまっていたのだ。(まさにちりも積もれば、である)ほぼ100日、アルコールの類を一滴も口にせず、こころを入れ替えたかのように(オーバーですが)品行方正というか、逆に言えば面白みのない人間になったかのような、以前とは比較にならなほどの、生活変身ぶりである。

身体に蓄積していたあらゆる膿を取り除いていただいたおかげで、精神の膿のようなものまで取り除かれたかのようなあんばいなのである。日常無意識に依存していたのだなあ、との反省認識。あの横たわっていた時間に思い知った命の尊さ、かけがえのなさ、有難さ。

子供のころはお酒を飲まなくても、とくに何もなくても十二分に遊べたのに、大人になるにしたがってお酒ほかの、世間の大人の社会時間を過ごす中で贅沢になり、欲望のおもむくままに勘違い、見失っていた遊び心を、想うのである。

キィを打ちながら、古希を前にない頭を絞り、五十鈴川だよりを打ちながら夢想する。こういう老人子供帰り遊び時間を共有できる同年代と遊びたいとの思いが日増しに増してくる。

できるだけ、小さいころの食生活の原点に還った生活を心かけることにし、限りなく余分なものを取り除き(情報も含め)、風通しの良い老いゆく身体時間を過ごしたいのである。その為にいかに生きるのかを、退院後私は考え続けている。

DNAで受け継いだ外見性格ほかは変えようがないが、生きてゆく方図は、自分自身でいくばくかは変えられるのでは、との淡い期待を育てたいのである。

これ以上打つと論旨に脈絡がなくなるのでやめるが、 25歳でロンドンで出会い、多大な影響を受けた土取利行さんに、術後とても会いたくなっている。土取利行さんはお酒を口にしない。半世紀以上音楽家としてこの困難な時代を、独自に多岐に分け入って探究、畏怖する方である。

お酒をたしなまなくなって、まだ間がない私だが、お酒を飲まずに話がしたい相手として、土取利行さんは今私が一番お会いして、話を伺いたい方である。

2021-06-09

いよいよの夏の到来の前に、知恵を絞って暑さ対策を考え、もの想う朝。

 起きたての朝の冷気の中でないと、とてもではないが五十鈴川だよりを打てない季節の到来がやってきた。日中の暑さというよりも、紫外線のつよさが、年齢のせいもあるだろうがこたえる。

だが、そこを工夫しながらしのいでゆくのを面白がれるか、なれないかだと自分に言い聞かせる。もう無謀なことはできない年齢だとは重々承知しながらも、やれるという感覚、やりたいと思う気持ちが湧いてくる間は、一日でも長く肉体労働アルバイトは続けたい。

だが明らかに術後私は、健康管理に 気を回すようになった。無理をしなくなったのである。とにかくあわてず騒がず、ゆっくりと丁寧にと、まるで呪文を唱えながら、努めて足先を意識し集中する訓練とアルバイトを楽しむようにしている。

青天井で体を動かす気持ちよさは、おそらく富良野塾での体験と中世夢が原での体験がなかったら、まずもって体得することは叶わなかっただろう。

どこかでコロナ後を見据えながらも、先のことはあまり考えず、今日一日をいかに過ごすかに腐心する、そのことが一番肝要である。

58キロまで何とか体重が戻り(60キロがベスト)仕事に必要な筋力もほとんど戻ってきたので、半日程度ならなんてことなくこなせるようになってきた。これから夏を乗り切るための体の管理対策をきちんとやりながら、と思案している。

任されているので、自由にお天気任せ、自己責任で働けるのが何よりも在り難い。古希近く、このようにこれまでやってきたことが無駄なく生かせるアルバイトが家の近く(夢が原とのあまりの距離の相違)で見つかるとは。(しかも菜園場と隠れ家付き)

人生、摩訶不思議というよりは、篠田桃紅先生がおっしゃるように、螺旋状に一本の線のように連綿と流れてゆく。亡き父が人がやりたがらないようなことを率先してやる人間になれと、小さい私に繰り返し語ってくれたものだが、その言葉を忘れなかったことが、よかったのだと思える今である。

私が尊敬してやまない映画監督の黒澤明監督が、どんな仕事でも面白がってやっていれば、面白くなるのだとおっしゃっていたがまさに然りである。中世夢が原で最も苦手だった薪割も、体得した。身についたことは頭は忘れても体は忘れない。

文字も手が記憶していることは、度々である。父も母も晩年は病に冒されたが(当たり前のことである)ぼけることはなかった。そのことをおもう時、先のことはわからないにもせよ、手足ををきちんと動かし、まずは歩き、身体全身で考えることをことを楽しみたい。


2021-06-07

コロナ渦中生活、静かに中村哲先生の御本を読み、勇気をいただく。

 6時間熟睡して目が覚めたので起きた。午後9時以降はよほどのことがない限り体を休めるようにしているので、テレビはまずほとんど見ない。術後退院してそれはより一層顕著である。

目も耳もすべて閉じて、眠りに落ちるまでの、いわば 沈黙のひと時を、以前にもまして大切にしている。間接情報、やたら歓心と欲望を刺激するCMが多いテレビは、見なくなって久しい。

とはいっても、先日のNHKのドキュメントのように、作り手の職人魂と出演者の魂が、溶け合い呼応する、私にとって想像力 を痛く刺激するような番組、力が湧いてくる番組も、多くはないが、あるので油断はできない。

だがあだやおろそかには時代の趨勢、風潮には、ちょ、っと待てよ、と唾する感覚は失いたくないと自戒するのである。批評感覚を失ったら単なる祖父さんと化してしまうおのれが怖い。

だが古希近くまで何とか生きてきて、いよいよ思うことは、風まかせ、風流、風情を頼りに、老いゆく身体が少しでも喜ぶような、お金に頼らない気持ちの良い時間を過ごしたい、と術後一段と思うようになってきたのである。だがただ韜晦して、結果時代に迎合してしまうかのような祖父さんになるのはご免である。

先に来日し、サッカー日本代表 とたたかったミャンマーの選手が、3本の指を立て軍政に抗議の意思表示をしていたが、大勢に流されず自分の考えをきちんと意思表示する、できる老人でこそ、私はありたい。

先日も書いたが、たった一人とは考えず、世界に存在する(ビジョンハッカー世代のような)老若男女良心ある方々、仕方がないとは考えない勇気ある人間と連帯したいのである。

ペンは剣より強いと想う。そのことは時代に安易に迎合せず、暴力にも迎合せず、体一つで、アフガニスタンの悲惨極まる底辺民衆に寄り添い、見て見ぬふりをせず、分け入り、寝食を共にし、行動し、奇蹟の前人未到の用水路を成した中村哲先生の遺された、書物の記録が物語っている。

50代目前、たまたま、当時無名であった中村哲先生の御本を読み、その あまりの真摯さにこのような九州男子がいまだ存在することに、私は大いなる勇気をいただき励まされた。

そして今、コロナ渦中自粛生活、時折中村先生の御本を手にし、静かに生活したいと想うのである。


2021-06-06

昨日桂小三治師匠と伊東四朗さんお二人のドキュメントをNHKで見て想う。

 術後退院し、肉体労働アルバイトに復帰して2カ月以上が過ぎた。退院して2週間もたっておらず、ちょっと早い気がしたが、お医者様が半日無理のない程度なら構わないといってくださったので体を動かすことにしたのである。

結果はやはり肉体労働アルバイトに、早く復帰したのが よかったのだと思う。手術前とほとんど変わらない程度には体が動かせるようになっている。三日連続して五十鈴川だよりが書ける、気力体力があれば、一応 ほぼ完全に以前の躰に戻った、とおもえる。ありがたいというほかはない。

ところで、五十鈴川だよりはほとんど休日か、雨の日の午前中、それも起きてさほど時間が経っていない午前中に書いていることが多いので、平日の午前中にはほとんど五十鈴川だよりは書いていない。(と思う)

来週の天気予報を見ると雨マークがないので、おそらくお休みの日まで五十鈴川だよりは書かないだろう。だがわからない、書きたいことが忽然と湧いてくるやもしれぬ。気分が乗った時は書き、気分がのらない時は文字を打って、おのれを鼓舞、叱咤激励するためにも必須の、いまや五十鈴川だよりだからである。

梅雨の晴れ間、大地の上で草を刈ったり、植栽の枝の剪定をしたりできるだけの体力が続く間は、(単細胞の私はこの労働が好きである)五十鈴川だよりも文字を打ち続けられる(書くという表現はやめることにした)のではとの、淡き自己幻想に耽る、つまり文字を打つ手仕事も同じように好きなのである。私自身が生きてゆくために必須なのである。

さて、いつものように話を変える。昨日NHKで落語家、桂小三治師匠の、非常事態で寄席が自粛閉鎖される中コロナと闘いながら、高座に上がる執念の姿を追ったドキュメントと、NHKBSで、喜劇役者、伊東四朗さんのこれまでの人生をを振り返りながら、今現在の姿を追ったドキュメントを、たまたま見る子ことができた。

長くなるので、詳細は打たない。ただただいいものを見させていただいたと、五十鈴川だより打っておきたい。齢80歳を過ぎた一人の落語家と、一人の喜劇役者の対照的で稀な存在としてのお二人に、芸人としての誇り、矜持、魂をみた。

なぜあのような、傑出した芸能者が(芸風、分野は全く異なるが)存在するのか、秘密はどこにあるのか。生れ落ちた昭和という時代背景、環境、出会った先人芸能者から学んだ何よりも素直で、真っ当なご自身の飾らない性格など、運命というしかない無限の因子が精妙に絡み合いながら、AIでは生み出し得ようもない、不世出唯一無二の芸能者が存在しているのだと思える。

ごく普通に、市井の片隅で今を生きている私が、お二人に感じ入るのは年齢が一回り離れているとはいえ、かなりの部分でまさに昭和の匂い、同時代を生きたおびただしい芸能者の記憶(いまはあの世に召された)が私の中にあるからである。

お二人に共通する、お亡くなりになった先輩芸人たちへの敬意、それを受け継ぐ芸能者の遺伝子のあまりの真っ当さ、責任感のつよさに私は打たれたのである。腰の低さ、低姿勢から、世界を見つめるしたたかさ。

小三治さんも伊東四朗さんも、饒舌には語らない。全身で醸し出す、後ろ姿で、たたずまいで、しぐさで、照れて、またや、じっと目を見て、淡々と身体を風吹き抜けるように語るのである。

余人をもって代えがたい味は、まさに一朝一夕にはならないのだと知る。まさに時代が不世出の芸能者を生むのだといわざるを得ない。映画全盛期からテレビ善全盛期、焼け跡から、貧しさを知る庶民の側から、戦後の昭和からの出発。そして令和の今を今を生きるお二人。

脈絡がないが私は想像する、まずは移動する旅芸人、サーカス、放浪のジプシー、盲目の歌い手から、季節ごとのお寺や神社でのお祭りの角付け芸人、文士(シェイクスピアはまさに希代の文士である)物売り、ストリップ、上品下品猥雑ひっくるめ、あらゆる多種多様な芸能者の存在の何という世の中を映す今は消えた至芸の数々。(その芸人DNAを受け継ぐ桂小三治師匠や伊東四朗さんは絶滅危惧種である)

やがて100年以上前の映像の発明による大激変、無声映画からトーキー映画へと移行、テクノロジーの発達、そしてテレビ全盛時代へと。社会の変容と共に芸もまた時代に合うように変容し、画面に映る芸へと。わずか1パーセントで100万人が見るといわれる。

しかし、心ある芸人はテレビに出ながらも、原点の芸人魂は失わない。少ないお客を相手に生でしか伝わらないネタを足を運んでくれたお客に直接体で伝える。小屋芸と常に底辺大衆に寄り添いながらも時代を風刺、時に権力者たちを底辺から揶揄する芸人根性。

打っていたら、つい長くなった。齢を忘れいまだざわざわする。感動するばねが心にある間、草刈りができる間、ともかく素敵に生きた過去の先人たちから学び、今を生きておられる、先人お二人の爪の垢でも飲む気持ちで、キィが打てる間は五十鈴川だよりを綴りたい。

(インターネットの御時勢、私もまた絶滅危惧種を生きているとの自覚がある)



 


2021-06-05

梅雨の一時、シェイクスピア作品の登場人物の音読で心に風を入れる。

 自分がまるで小さな山椒魚にでもなったのではないかと思えるほどに、休日は家の周りを散歩か買い物に出かけるくらいで、落ち着いた静かなる日々を、苦にならずに生活できている。

机に座って、集中して書いたり、読んだりしていると、どうしても姿勢が悪くなり体の気の流れが悪くなり、雨が続くと気が重くなる。そういう時にはちょっと気分転換、雑巾がけをしたり、ちょっストレッチや、巻き藁、とどめは好きなシェイクスピア作品の登場人物の音読で、身体の気の流れを良くするように、とくに梅雨の時期は心がけている。

料理も、私の場合実に簡単な金太郎あめのような、お味噌汁、サラダ野菜と麺類中心の似たような調理しかできないのだが、気分転換には欠かせない。決まりきったルーティン時間割で似たような、一見同じことの繰り返しのような日々なのだが、同じ日は二度とないと体に言い聞かせる。

歌に、帰り来ぬ青春というのがあるが、まさに人生は帰り来ぬ老春、後戻りできないのが真実である。ならば。言葉遊びではなく、過ぎ去りし時間は、二度と、二度と戻っては来ない。与えられ、生かされている今をいかに生きるのかを、生きないのか、コロナ渦中生活であろうが、なかろうが、生きてゆくことの本質は、いかに生きるのかが、大事なことだと 私は受け止める。

話は、忽然と変わるが、リア王が亡くなった末娘のコーディーリアを両腕に抱え、二度と生き返らない慟哭のシーン、まさに名作というのは時代を軽く飛び越えて、現代に蘇る。(シェイクスピア以外の作品でもなんでもいいので、好きな作品があれば一人で音読してください)

数年前、80歳のリアの台詞を一年かけて体で音読し続けたお陰で、老いの身にいまだ 時折リアの言葉がふいに蘇る。リアはすべてをなくして、心底気づくのである。

人間という存在の何という不条理、すべてをなくし、何も持たなくなって死を予感しながらの、老人の慟哭。以前は悲しくも無残悲惨なシーンと想えたのだが、それは一面の真理ではあるが、それがすべてではないという気が、術後私にはしてきた、うまくは言えないが。

名作は、読み手の年齢、置かれた状況次第で万華鏡のように、都合のいいように変化する。世界が多面的に、刻一刻と表層的にものすごい速さで一見変化してゆく。私のような愚者は恐れおののき、うろたえもするが、シェイクスピア作品の珠玉の名作の登場人物の台詞を音読すると(繰り返し繰り返し)、お経を唱えたかのように心が安らぐのである。


2021-06-04

我が家の自室とバイト先の隠れ家、庵を往復し、ものを想う。

 6月に入って最初の五十鈴川だより。新聞配達のおじさんのバイクの音で目覚めた。雨である。雨音を聴きつつ何を綴ろうかとしばし思案。私にとっては古希を目前にしての大きな手術のおかげで、オーバーに言えば命に関する感覚が、以前とは異なり鋭敏になっている。

毎朝、目覚めると生きている 感覚を、どこかうまく言えないが体全部で感謝し、手と足をさすり、こすり合わせたのち、ゆっくりと立ち上がり、まず床をたたむ。以前も書いたかと思うが、すっかり今や敬虔な儀式となりつつある。

若い時から、考えるより先に身体が反応するタイプの私としては、同じ自分とは思えないような気がするが、これが老いるということであり、仏教用語でいうところの、林住期から遊行期へと移行している、身体の季節なのだと思い知る。

さて、先週の日曜。長らくほっとかれていたバイト先の菜園場が一面(約10畳くらい)雑草に覆われていて気になっていたので、術後の体力の測定もかねて、ひとりで多種類の手ごわい雑草を 抜き、鍬で耕し、ピーマン、トマト、ナス、を植えた。

その間ほぼ4時間、何とか畑としての体裁をよみがえらせることができたのと同時に、現時点での自分の体の体力測定も量ることができ土と触れる良き時間を過ごすことができた。

このコロナ自粛生活の渦中において、主にしゃがんでの菜園作業場は、いまや私にとっては無心になって身体が動かせる貴重なトポス、人との接触を限りなく避けなければならない世の趨勢の中で、原点回帰思考ができる菜園場時間は、私にとってはいまや救いのひとり時間が過ごせる大切な場所なのである。

このバイト先には倉庫があり、畑を耕す道具がすべてそろっており、休息ができるスペースには机といすがあり、お湯も沸かせお茶も飲めるし読書もできる。

気分転換隠れ場所として、この数年重宝しているが、コロナ渦中生活の現在、私にとっては一段と価値のある居場所となっている。自室と隠れ家の往復方丈生活、今の私にはささやかな砦である。

もっと書けば、この作業場、私にとっては命の庵なのである。小さいころの隠れ家、かくれんぼう場所である。私には高価なものや別荘などは不要である。エンピティスペース、何もない落ち着ける居場所があれば、もうほかには何もいらない遊行期をこそが、私には必要なのである。

畑作業、読書につかれたら、大天井を散歩、大声を出しても虚空に響くだけ、おのれの小さき存在を確認し、術後再び律動している今の自分が感じられる。