年齢にふさわしい、人生で初めてといってもいい静かなお正月を送っている。昨日母は自分の家に戻り、再び妻との生活が始まった。さて昨日、年賀状は昨年をもって卒業する旨お知らせをしたのだが、それにもかかわらず30人以上の方々から、賀状を頂戴した。
私はいただいた方には、墨をすり一筆入れゆっくりとお礼を書くことにし、まずは20人に投函した。この程度の人数であれば、いまだ私には手書きで十分である。松の内に感謝の一筆を投函したい。
いただいた賀状のかなりには自筆文字が見られ、やはりほっとする。還暦を過ぎてから私自身は時折墨をすり、筆や万年筆で文字を書く生活を、時代にあらがうかのように意識的に努めている。これが自己満足的に愉しい。思わぬいっときが流れる。
年頭に当たり、いつまで続くか先の見えないコロナ渦中生活、いつもはやらないことをより意識的に面白がりたく、身近な、感覚を共有できる方にはお便りを書くようにしようと思う私である。時間は一定なので思いを籠め、書けるうちに拙文を綴れるいっときを大切にしたく思う。あとは、実践できるかどうかである。
年末から念頭にかけて、ゆったりとしたまるで幼少期に還ったかのような時の流れを感じながら、五十鈴川だよりを綴ることができた。きわめて個人的、わがままな思い入れの強い五十鈴川だよりであることを、私は承知している。
きっとますます時代の趨勢との違和、祖語、ずれは深まりこすれ、薄まることはないだろう。でもそれでいいのだという、どこかしら柳に風のように、五十鈴川が自然に流れてゆくように、かくありたくあえて時代の趨勢を追うことはとうの昔に辞めている。好きなことに時をゆだねたい。
それより、自分の体と精神が喜ぶことを、これから毎日やり続けることこそが大事なのだとの思い、可能な限り(といってもデジタルも用いながら)時間をかけて楽しめることの方に、ゆっくりとシフトしてゆきたい私である。
亡き父は万年筆と、筆を愛用し水が流れるように文字を書いていたし、それで足りる生活をしていたので、私もそれに習うだけである。何かに祈るということが、書くという音には込められている。耕すとか彫るということにも。これから先はわからないが、特定の宗教はない私だが、天を仰いで手を合わせたり、お墓参りで祈ることはきっと増える。はかなさをいとおしむ暮らし。気恥ずかしいが愛のある暮らし、しかない。
文字を書くことが、還暦を過ぎて徐々に好きになってきつつあるわたしだ。文章を書くことも文字を書くことも、苦手の極みみたいな私だったのだが、人間は微妙に変化し続ける。心が感じ動く間は、謙虚な心持で日々の生活の細部を丁寧に生きたいと思う。
さて、明日からは半日とはいえ(十分である)私の好きな肉体労働、トレーニングを兼ねた仕事が始まる。朝日を浴びて動けることは、幸福、快感である。部屋に陽光が差し込んできた。
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