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2021-01-24

妻のお誕生日の朝に想う。

 二日連続して五十鈴川だよりを綴るのはこの歳になると稀である。

さて今日は妻のお誕生日である。この一年、陽が沈んだら夫婦の二人きりでの夫婦時間を過ごしてきたことで、私の中にいい意味でこれまでの夫婦関係では感じなかったことがずいぶんと感じられるようになってきているのは、あきらかにコロナ禍がもたらした、思わぬ禍福である。(と私は感じている)

その禍福を言葉にするのははなはだ難しいが、私はこれからの実践行動で妻に対しては新たな同居人、生活者パートナー としてよき関係性を保つための努力を、自律して為さねばいけないという自省の深まりである。

そのいちいちを記すことは、まだちょっと気恥ずかしいが、お互いが老いてゆく(やがてはお別れが来るまで)これからの時間こそを大切に生きて、ともに過ごすためのパートナーの片割れとしての自覚を深めたいと、妻の生誕の日に五十鈴川だよりに書いておく。

男子厨房に入るべからず、と公言してはばからない戦前の暴君的父親に育てられた私には、桎梏といってもいいほどの時に自己嫌悪に陥るほどのあらがい難い、深層、闇ががうごめいてしまうことを、正直に告白する。

戦後民主主義生まれとは言いながら、明治生まれの祖父母、大正生まれの父に育てられ、九州男子的な桎梏にとらわれた続けている至らない私を、見放しもせず傍に置いてくれている稀なヒトなのだという自覚が、コロナのおかげでよりリアルに深まってきたのである。

これ以上書くと、犬も食わないようになるから控えるが、このところまず簡単な料理をしたり、買い物、かたずけを率先してやるとか、妻の家事労働の負担をへらすことを心かけている。

スーパーマーケットでの買い物などは中世夢が原で働いていた時にはしたこともなかったが、今では買い物に行くのを楽しんでいる自分がいる。洗濯物を干したり、畳んだりすることもなんてことはない。お互いが気持ちよく生活してゆくのに、ただ当たり前のことをやればいいだけのことである。

長女の旦那さんのれいさんは、炊事洗濯料理なんでも娘と共に極めて当たり前にできる。シェアする当たり前感覚が自然に身についている。共働きしながら、二人でしっかりと支え合いながら望晃くんを育てている。私も世代を超えてかくありたい。

コロナ渦中で迎えた妻のお誕生日、お祝いの夕飯はつたなくとも私が作ることにする。

 

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