文字だけの五十鈴川だよりになって久しいが、いつの日にかコロナが終息したら、写真不在の拙文に、まとめてレイアウト的に写真をアップしたいと思っている。
その写真もおそらくは読めなくても文字が映っている写真や、昨年コロナ渦中生活で読んで打たれた本が大部になるとは思う。 生活的にも時間的にも中世夢が原の仕事を辞し、娘たちが巣立ち、私は幼い時とは全く異なる、もちろん初めて経験する穏やかな人生時間の今を生きている。
何度もかいているが、亡き父が若い時の苦労は買ってでももせよ、といった言葉が(日本も含め、いま世界各地で報道で知る、生活困難者とは比較せべくもないが)何度も脳裏に浮かぶ。【今が在り難い】
聖書にも言う、泣きながらパンを食べたものでないとその味はわからないと。戦場や焼け跡で飢えた経験のない人間には、感謝するありがたみは望むべくもないのかもしれない。覚るとはなんとも難しい。
話は変わるが、私は昨年から今に至るコロナ渦中生活、で以前にもまして、きちんと新聞に目を通すようになってきた。ただ読むだけではなく、母が娘たちの使い残しの余った古いノートをほどいた紙をくれたので、目に留まった記事を切り抜いて、時間を見つけて気分転換に貼っていたのがずいぶんとたまった。(コロナ渦中生活の記録にしたい)
本を読む速度が極端に遅い私である。月に数冊じっくりと読める本があれば十分である。感応でき、エネルギーが満ちる本を繰り返し繰り返し読むに足りる本が手元にあれば十分。
老いつつある胃袋では、食べるものも読めるものも、限りがある。おのずと変化してくるのが自然の摂理、時流におもねたような本は全く読まないし、読めない。やはり著者の人間的な魅力、人生がが文体に現れつまったような本に私は惹かれる。文は人なりというが、文体には人柄が宿る。拙文を満座にさらすおのれとは、無知蒙昧、厚顔無恥と自覚している。
年齢と共に読む本は変わる、年齢を重ねないと、経験しないと分からない本も多々ある。この齢になる実感できるのも、老いの幸徳と知る。
日々の生活の中で老いと向かい合い、いまだ体に元気な気持ちになれる活力源ともなる栄養、新鮮な風を吹き込んでくれるような本、言葉を持つ著者との出会いこそが、今の私に暮らしには欠かせない。
今朝も元気に五十鈴川だよりを書けるのは、怪我の功名 、この間のコロナ渦中生活で良き本に巡り合えているおかげである。学ぶということの面白さを、この年にして実感している。
考える葦とは言い得て妙というしかない。今しばらくは揺れよじれながら、煩悩を抱え揺らめきときめきたい。
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