例年必ず一月二月は、父や母、義父の命日がやってくるし、我々夫婦の誕生日もやってくる。だからというわけではないのだが、還暦以後、冬の季節は私の中では冬眠の状態を生きているかのような感覚がある。物思う余裕の季節なのである。
ねんれいのことも十分にあると思うが、この寒い季節は、北風をやり過ごすかのように、より一層静かに落ち着いて生活したいと思うのである。オーバーに書けば、死者たちに想いをはせて生きる冬時間なのである。
夜は先ず外出することはない。日が暮れると妻がストーブに火を入れる。家を建て替えて丸20年、 今も薪ストーブは冬の我が家には必須である。画面よりも炎の揺らめきを眺める。
夕飯の後、ストーブのそばでくつろぐいっときが至福だ。花もメルも妻もいる。お酒は極端に飲まなくなった。大きめのお猪口に一杯の梅酒が在れば十分である。寒い夜、ストーブの暖かさに包まれ、湧いたお湯で湯たんぽを事前にお布団に入れておく、暖かい布団が一日を終えた初老凡夫をいたわってくれる。あっという間に眠りに落ちる。眠れる愉楽【老いの身は・湯たんぽ抱いて・夢を見る】ってな按配。
先週、いつもストーブで燃やす建材の木っ端をいただいている会社(これからは近所づきあいが大切)に行き、例年通り車に一杯いただいてきた。妻と二人、ありがたいねと何度も言いながら、これで冬眠生活ができる安ど感が初老夫婦を満たした。
性差も含め、妻と私の性格はまるで異なるが、事ストーブに関してはメンテナンスから 薪の調達まで一緒にやる。(土いじりも)お互いが不得手のことは支え合う。その按配加減がこのコロナ渦中の生活で、しっかりと今更のように再認識できていることは怪我の功名というしかない。
妻は家の中(周り)、での生活に痛痒を感じない、それを苦に感じることが少ない足るを知るタイプの、私に言わせれば稀なヒトである。私は男性でじっとしてはいられないタイプであったのだが、このコロナ渦中生活で、否応なく人と会わず無為で静かな時間が増えたおかげで、じっと何事かをなすことが当たり前の、昔人的ライフが身についてきつつあるのを感じる。
ヒトは状況に応じて変化し、生き延びてきたのに違いない。置かれた状況を、一日を、可能な範囲でギリギリしのぐ英知を過去の庶民列伝の中に私は見つけたい。ごく普通の市井の生活の中で生きた人たちから学びたい。特段のヒーローや、メディや報道、テレビの訳知り教養人たちの言にはいささかうんざりしている。
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