この静けき いっとき、精神のニュウートラル状態、起きたばかりの胡乱な時間帯が、ことのほか私は好きである。このようなことは五十鈴川だよりに、たぶん何十回も書いているだろうし、今後もきっと繰り返し、変奏曲のように書くのだろう。
太陽と違って、月は内省的におのれを導いてくれるような気がする。陽が沈み闇が濃くなると、おのれの体も微妙に変化するように、自然の摂理とおのれの体は、女性ならずとも、男性も密接であることを感じる。
幼少期、思春期、青年期、壮年期、そして今は初老期だろうか、時の移ろい、季節の移ろいの中で、はなはだ今もって揺れる(いい意味で)おのれを生きている。
このようなことを書くのは以前ははなはだ気恥ずかしかったが、やはり年のせいか厚顔になってきつつある。
話を変える。昨日カラー印刷のロミオとジュリエットのチラシができ、夕刻Nさんと待ち合わせ、200枚ほど受け取った。今手元にある。
7年目にして初めてのカラー印刷の、発表会のチラシ。塾を立ち上げた時よもやまさかこのような形で発表会ができるとは、予想だにしなかった。
私も含め、わずか7名でロミオとジュリエットの発表会ができるようになるなんて。すべては、このような時代のさなか飽くことなく、口を動かし続けている塾生たちの努力の賜物である。
ことをやれる面々が自分たちの発表会に足を運んでもらうべく、自主的に行動実践している。そのことが私にはうれしい。
そして、塾生がゆっくりと成長(多面的に)してゆく様を、ことのほか今年は実感している。昨年塾に加入、今年初めて発表会 に臨むOさん、チラシ創り、音作りと、フル稼働のNさん、会場の予約折衝などのMさん他、自主的に動いている。
今まさに生きている、という実感が乏しいと、なかなかにシェイクスピアのコトバは絵に描いた餅のような、血の通わない台詞になってしまいがちである。
台詞の躍動感、ダイナミックに奔流のようにほとばしる情熱がないと、シェイクスピアのコトバは立ち上がってこない。とくにロミオとジュリエットは青春の愛と死の劇だからである。
ロミオとジュリエットは青春残酷物語である。
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