うすらぼんやりと、あのことはは書いておかなくては思うことはあるが、起きたばかりの今朝などは、何も考えてはいない。
書いているうちに、何やらが動き出し始める、まったくわがままな五十鈴川だよりである。猫の花がすり寄ってきて、ゴロゴロと喉を鳴らす音を聞きながら、静かなる夜明け前のいっときを 、初老男はコーヒーを飲みながら、いいなあ、とのたまうのである。
わずかの一時がいいのである。今日一日の大まかな、やらねばならぬことなどを、考えたりしながら、その前の余裕の一時。
何事も余裕がないと、どうも私は不安というとオーバーだが、ダメなタイプである。五十鈴川だよりを書きながら、不安解消に相務めているといった按配なのかもしれない。
五十鈴川だよりを書くことは、自己セラピーである。第4次産業革命の渦中のこの十数年を何とか生き延び、今初老の人生時間を歩んでいる私にとって、そのあまりにというしかない、デジタルハイテクノロジーのすさまじさに、わが老いゆく肉体は翻弄されるばかりである。
だから、この十数年毎年故郷を往還することで、心身の機能調節を図りながら日々を生きているといった体なのである。
だが、このようなあまりにも寄る辺ない、茫漠たる不安を抱えている 私と同世代人は多いのではないかと想像する。いや、それは私たちだけの世代だけではなく、多くの現代人に通底するとらえどころのない闇の深さなのでは、などと凡夫の私でさえ思うのである。
自分でも制御不可能な、得体のしれないかのような闇を抱え込んでいる現代人が、世界中に 跋扈し始めている、といった気がしてならない。
母が植えた蔓バラ、妻が十数年手入れ、今年も愛でることができた。 |
次々と起こる一昔前までは(テロも含め)思いも及ばないような事件の 連鎖は、何を暗示しているのか、凡夫の初老男の感知しうるところではないが、私のような単細胞生物は、できるだけ生活をシンプルにし、かけがえのない内なる体が喜ぶようなことにこそ、今を生きる情熱の残り火を、と考えるくらいしか思い及ばぬのだが。
ともあれ、今朝の五十鈴川だよりはこのような流れになってしまった。昔には帰れないが、青い空、曇り空、雨の日、花や、植物、動物他、私という存在は宇宙という自然界に存在している。
光、酸素と水なくして一日足りと存在できない。ありがたや、ありがたやである。