とにかく我妻は、家の中のこまごまとした雑事をすいすいとこなす才能が、私に言わせれば長けている。いそいそと楽しそうにこなしている。
どうしてもできないことがあるときのみ、私に声がかかる。それは主に力が必要な場合である。だから私もできる限り彼女の意に添うように、心かけるようになってきた。
特に休日は、これからのお互いの人生時間を 可能な範囲で共有できるようにしたいと、殊勝に私は決めている。中世夢が原で働いていた時には、よんどころのない私の思いを優先し、ずいぶんと彼女に助けられて、仕事に集中できたので、これからは彼女との時間を大事にしたいのである。
このようなことを綴ると、老いらくのおのろけと、あらぬ誤解を招きそうなので止すが、晩年の夫婦としての時間の過ごし方を、可能な限りいい感じでと願い、そのよき作法のようなものを、探りつつ老いゆく時間を大切にしたいのである。
沖縄の画家、桑江良健氏に頂いた絵、宝である。 |
昨日も、台所まわりの頑固な汚れ、ガラス磨きなどを頼まれたので、あいよとこなした。きれいになると実に気持ちがいい。新しい年を迎えるために、先人たちは家の中をきれいに掃き清めたり、積もったちりを祓い、お清めの儀式を工夫したのにあやかる。
ともあれ、拭き掃除、掃き掃除は掃除の基本中の基本である。ぞうきんを絞るという極めて当たり前の営為も、近年は減ってきつつあるように見受けられるが、私は雑巾がけは体操くらいの頭の切り替えでやることにしている。
剥く、ほどく、結ぶ、拭く、掃く、磨く、つまむ、絞る、しゃがむ、重いものを全身で持つとか、etc。自分の体の微妙な細部を 私を含めた現代人はあまりにも使わなくなったように思える。
進化とは退化であるとの言葉が浮かぶ。何かを得たら何かを失うとの言も。自分の体と心が気持ちよくなるとは、いったいどういうことなのであろうかと、今更ながら年の瀬に想うのである。
今日は午前中徳山道場の大掃除、午後は我が家のストーブのある吹き抜けのリビングの天井の掃除をやろうと思っている。
やがてはAIに頼る日が来るかも しれないが、神からいただいたわが体が動くうちは、わが動く身体を神に感謝し、妻と共に掃除に励める年の瀬、身体を動かすのである。
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