このようなを五十鈴川だよりが書けることは、おじじとして幸福である。あまりにも複雑化している感のある、現代社会における家族の問題であるが、幸いにも事我が家に関しては、全員が今のところ健康で社会生活を過ごせ、母もいまだ元気であるからこそ、極めて有難く普通にお正月を迎えられそうである。
健康で、つつましく、シンプルささやかにという以外に、ことさらの家族観は私にはない。老いをゆっくりと感じながら、おじじになり(させてもらって)望晃くんの日々の変化を間近に接するにつけ、殊勝にも老いの役割のようなものを、柄にもなく考えるようになってきつつある。
老いてはこに従えなどという、私の父は老いても子に従わないほどの頑固な個性の持ち主であったが、さて私はどうなってゆくのか、と自分の今後に自分自身がいい意味で揺れる。
それほどに望晃くんの新しい存在は、老いてゆきつつの、私の内面生活に 変化を示唆してくれそうな気配である。
こればかりは、私もおじじにならないと感知することのなかった感覚なので、今更ながらに孫という存在の不思議さに驚かされている。
娘を持った時の父親としての感覚とはまた異なる、この年齢ならではの、そこははかとした味わいである。
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あきらかに死者の世界に近づきながら、新しい生命力にたじろぎながらも、その生命力にあやかれる幸福の時間の厳かさのようなものを、柄にもなく私は感じるのである。
ほかの方は知らない、私は感じる。オーバーではあるかもしれないが、孫の存在はこれまでの私の過ごしてきた歩んできた生活そのものをさえ、見直してしまいかねないほどなのである。
孫に恵まれてあの人変わったよね、といわれかねないが、どうか広い心でご寛恕願うしかない。長い人生時間、人間は折々変節脱皮しながら生きるしかない(自分の良しとする方向へ)特に私の場合は。
いずれにせよ、母親はお昼過ぎ、次女は夜遅く帰省し久しぶりに全員そろい、我が家はにぎやかになる。新しい歳、望晃くんを迎えての初めてのお正月となる。
娘は平成元年に生まれ、望晃くんは平成の最後の年に生まれた。時間は流れ流れ、我々はささやかに家族の歴史を刻んでゆく。
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