したがって、夕飯後は薪ストーブの炎を眺めながらゴロゴロと過ごすのが、私の冬の夜長のささやかな喜びである。
そして、眠くなったら速やかに休むのである。幸いなことに私はすぐに眠りに落ちるし、寝ることが好きであり、ありがたいことに健康であるからなのだろう、目覚め感もすっきりしている。
だからなのだろう、起きてそう間もないのに五十鈴川だよりがつづれるということの有難さを今も書きながら感じている。(私の全財産は、いま健康に動ける身体以外にはないのであることへの気づき)
よく動くためには、よく体を休めないと、私の場合無理である。睡眠不足だとあらゆることがうまくいかない。老いてはよく眠ることの重要性をことさらに感じる。
若い時のように、無理がきかないし、無理してはいけない。【ゆめゆめ無理は禁物下り坂】といった按配なのは承知している。
とはいうものの、生来の気質、受け継いだDNAというものは、おそらくはこの生を閉じるときまで、止むことはないのであろうことの絶対矛盾を私は生きている。
松岡正剛氏には永遠の少年が棲んでいる |
話は変わる。おとといの日曜夜、変則的だが遊声塾の稽古をした。個人的な都合でいつもより稽古時間を早めたため、最初4人で声を出していて、死に急ぐ5幕のロミオをたまたま私が読む羽目になった。
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66歳の私が、16歳のロミオの荒れ狂う言葉を声に出す。ついこの間まで80歳のリアの言葉と格闘していたのに、いきなり獰猛なコントロールのきかない思春期の言葉を。
成り行き、ええいままよ、と私は構わず飛び降りるような感じで、生理的に直観的にロミオの言葉を必死で声に出した。
うまく言えない、上手くは書けないが、シェイクスピア遊声塾は限られた人数で 、数多いシェイクスピアの登場人物の言葉を、真剣に遊び心で声に出す塾である。
役柄的には、まず一生読むことがかなわなかったであろう役を、思わぬことで始めた私塾では、魅力的な登場人物の声を出して遊べるという コロンブスの卵のようなことが可能なのである、ということの改めての気づきの感覚が、ロミオを読む私の体に澎湃と響いたのである。
自分とは不確かな実在の器、思春期のことなどすっかり忘れていたかのように生きている初老の私だが、かすかにいまだにあの淡い、きゅんとなるコントロールできない自分が住んでいる。
だから遊声塾を立ち上げて、今も飽きることなく声をだして遊んでいるのではないかとの思いをあらためて自覚した。
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