ページ

2018-12-11

村田喜代子さんの小説を読む、師走の一時。

この数日の急な寒波の到来で、一気に師走モードになり冬が来たという感じである。早寝早起きの私は、ことさらに師走の朝を感じながら、ちょっと五十鈴川だよりのひと時。

世の中の流れのようなものからは、ずいぶんと遠いところにいるような気分で日々を送っている感じのわたしである。それでまったく不都合を感じないので、まあいいではないかという感じ。

ただ何とはなしに、若い時からマイナーな、常に少数マイノリティの側にいるかのような暮らしを続けてきて今があるので、ことさらに書く必要もないのだが。

ずっと時代の流れにはついてゆけない自分の体を、引きずりながら生きてきたような按配のわたしなので、いよいよこのまま流れてゆく覚悟のようなものを、老いてゆきつつ深めてゆけるのか、否かと、思案するいっときは増えてゆきそうである。
1945年生まれの作家、もっとこの方の本は読みたい。

世の中の流れは、長生きを称賛する傾向があるが、何事も自然な流れ、ほどほどの加減が望ましく、長生きもさることながら、要はいかに生きたいのか、(生きたのか)ということこそが、問われるべきなのでは、との側に私などはくみするものである。

とはいえ、初孫に恵まれてみると、どこかに少しでも長生きして、その成長を見守りたいという、ささやかな願望なども生まれてきたりするのだから、いい加減な自分ではある。(絶対矛盾)

ともあれ、人間は日々揺れながら、揺蕩いながら、ああでもないこうでもないと思案しながら流れ流れて、いつとはなしに自分に都合のいい変節を繰り返しながら、存在してゆくしかない生き物である。(私自身が)

さて、私は本は読むものの、あまり小説の類はこのところほとんど読んでいなかったのだが、たまたま村田清子さんという作家の本を今手にしている。

もうすぐ読み終える。初老の夫婦の話である。詳細は割愛。このような本を私も手にする年齢になったのだなあ、との感慨が私を襲う。

へそ曲がりの私は、なんとなく気がせく師走こそは、時間を見つけて静かに内省的に良き本に巡り合うべく灯火親しむ時間を大切に過ごしたいと思う。



0 件のコメント:

コメントを投稿