わが姉兄弟は、父が転勤生活者であったために全員で過ごしたのは、私が小学5年生までだった。両親、祖父母、わが姉兄弟9人が一つ屋根に暮らしていた。
まだ戦後の匂いがかすかに残っていて、現在とは比較が及ばないほどに、貧しい暮らしであった。(我が家より貧しい人々も、地域に大勢暮らしていた、私が異国の貧しき民に同情を禁じ得ないのはそれゆえである)
それはそれは怖かった父を中心に、家族全員での生活が、今は無き生家での折々の記憶の 出来事が、いまだ私の脳裡には鮮明によみがえる。
悲しいことも、父に叱られてつらかったことも、うれしかったことも、あのつましい暮らしの出来事が、歳と共にすべてが今となっては良き思い出として蘇る。(おそらく今が幸福だからだろう)
人間の脳は、つらいことはあまり蘇らせないように無意識にそういう工夫をするとの言を読んだ気がするが、然りそうなのだなと思う。
兄弟げんかも数限りしたが、今となってはすべてが水の泡、胸底にかすかに残っているくらいで、やはり食い物にまつわる記憶とか、愉しかった思い出、つらかった思い出の方が 鮮明である。
なく父が使っていた硯、月に一度使っている |
晩節を迎えたわが姉兄弟(タイに住んでいる弟も含め、なかなか会えないが)と、兄弟のつながりが、いまだにいい感じで続いているのは、多分にあの生家での全員生活体験の記憶と、やはり両親の生き方、教育のおかげではないかと思う。
ところで、長兄の娘に二人目の子供が授かり、義理の姉が10月から千葉に付き添いでゆくことになり、しばしひとりでの生活になるとのこと他、近況が几帳面な文字で簡潔に記され、生まれたばかりの孫も含めての、次女家族とのにぎやかなお正月を過ごす予定であると結ばれていた。
私も初めておじじになり、 おじじの気持ちをようやく体験し、この年まで何とか生きてきた中で味わえる、人生の滋味、奥深さのような、若い時にはまったく考えも及ばなかった、老いるゆえにこそ味わえる未知の領域の広がりを実感している。
生命の連鎖、生と死の連鎖、新しい生命の誕生に寄り添う、おばば、おじじ役割は必須である。 ともあれおめでたい。
手紙というものは、やはりジンと伝わる。五十鈴川だよりに、わが兄夫婦の平凡の慶事を月が西の空に浮かぶ秋の朝記す。