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2016-02-20

イノシシの子供を供養し、命の循環に感謝する。

昨日、メルと竹韻庵にいったら入口の雑木林の木の葉の上に、イノシシの子供が死んでいるのを見つけ、予定を変えスコップとつるはしで穴を掘りとりあえず埋葬した。

赤ちゃんイノシシであったので、なんとかすぐに埋葬できたが、これがおおきなイノシシであったら、きっと相当大きい穴を掘らないといけないだろうから時間がかかっただろう。一応石を置いて供養した。

ついさっきまで生きていた命が動かなくなる。まさに命の不思議に思いをはせながら穴を掘った。久しぶりに神妙な面持ちで、里山でひとり死んだイノシシとの ひと時をすごした。

すぐそばに小学校があるのだが、まさにいまほど命の授業が必要な時代はないのではないかとの思いを私は強く持っている。命に対する畏怖の念がこんなにも軽い時代がこようとは。

ああ、資本主義経済の中でお金に翻弄される無数の命のはかなさよ、とときに絶望的なおもいにとらわれながら、初老男は命の素晴らしさに思いをいたす。

日々報じられる痛ましきニュースの数々、五十鈴川だよりではとんと書く気にはならないが、快適便利不夜城の都市型ライフは命の不思議を心底から凝視するには、あまりにも明るすぎる。

今こそ漆黒の闇の奥を見つめる、夜の授業(親子そろっての)が必要な時代が来ていると小生は考える。とまれ、話がそれた。

竹韻庵の周りにはイノシシが出没することがはっきりしているので、なるべく共存するような形であればいいのだが、今度は生きたイノシシに出会うのではないかという気がしている。

その時はその時で腹をくくるしかないが、作物を育てたい私としては悩ましきイノシシ対策を練らねばならないかと思うとちょっと気重になる。今はイノシシのあまり好まない作物を植えているが。

話は変わるが、昨日妻の職場の近くでいただいたコンパネの半分サイズの丈夫な 合板を4枚を竹韻庵に運び、落ち葉の堆肥場をつくった。作ったといっても杭を打ち込み、3方を囲っただけのシンプルなもの。

ここにどんぐりの落ち葉を運び、米ぬかや、野菜の不要部分そのほかいろんなものを混ぜ醗酵させる場所をとりあえず何か所か作りたいのである。

脈絡のない朝ブログになったが、絶対矛盾の思いにとらわれながら、五十鈴川だよりは命をいただきながら わが命を生きながらえ、循環する命の連鎖に感謝の念を忘れたくはない。



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